「幕末・明治モノ」に覗く「電気情報通信」(6)

林望:「薩摩スチューデント、西へ」

 「幕末・明治モノ」というと明治維新がいくら無血革命だったと言っても、実際には沢山の血が流れたし、また思想的にもめまぐるしい戦いがあり、どちらかというと肩の凝る物語になりがちだ。そんな中、ひたすら爽やかな青春群像ドラマとして描かれているのが林望の「薩摩スチューデント、西へ」である。(初版2007年、文庫版2010年)。

 元治二年(慶応元年)(1865年)、薩摩藩は秘密留学生15名と秘密使節4名をイギリスへ送り込んだ。この物語はその驚きの往路と、結果としてやや慌ただしくなったロンドン生活を、鎖国の中で育った薩摩弁そのままの生真面目な若者達の感性をとおして鮮やかに描き出している。送り出された青年達にとってそれはあまりにも強烈な体験だったので、帰路とその後の活躍は、手短に語られる後日談のようになっている。
 この旅は、今や観光地となった長崎、グラバー邸の主、スコットランド出身のトマス・グラバーとその会社、グラバー商会によってすっかりサポートされていた。全旅程を通してグラバー商会の手代、ライル・ホームという青年が、いわばツアー・コンダクター兼家庭教師の役割を担いながら引率する。一行はこのホームに導かれて船上や寄港地で貪欲に西欧文明を吸収しながら無事ロンドンに到着し、イギリス生活を始めることができた。
 この旅程で「電信」が大活躍する。その威力は一行に強烈な印象を残し、人物によってはその人生観を決定的に変えるほどだった。
 では林望の軽快な作品に導かれて、薩摩からロンドンへ向かおう。
 一行の中で藩の使節4人の内2人は海外経験があった。松木弘安は文久元年(1861年)の幕府遣欧使節随行し、流暢な蘭語はもとより英語にも堪能だった。五代才助は何度もこっそり上海往来の経験があり、もともとこの留学生派遣の企画者だった。堀壮十郎は長崎出身の英語通辞で、新納刑部は藩の大目付で一行の代表だった。
一行はまずは薩摩(本土)の羽島に結集、船待ちののち、沖合で皆を迎えたグラバー商会のスクリュー船オースタライエン号に乗り一路香港へ。船上で帯刀を預けたり、洋食など西洋文明に触れ、緊張の中でびっくり仰天という体験を重ねるが、この最初の寄港地で、もうその世界の現実に圧倒される。港内の夥しい数の大型船、西洋建築群、ガス灯、港の混雑の様子などで、自分たちがまるで井の中の蛙だったことを思い知る。文武廟なども訪れるが、分かっていると思っていた漢学の知識すら清国の現実を反映していなかったことを悟る。無気力な貧民状態の地元の人々の様子を見、米国への人身売買の一端を目撃、植物園でプラント・ハンティングの話を聞く。そして早くもドックをしっかり見学しここで蒸気ポンプの威力に着目している。港内のイギリス軍艦ユーリアラス号から公式晩餐会の招待があり、社交活動の初体験をする。それはイギリス東洋艦隊旗艦、先年鹿児島湾で激しく艦砲射撃し、一時五代才助らを捕虜にした艦そのものだった。
 そして大型船に乗り換えシンガポールを目指す。P&O汽船会社のマドラス号、1,200トン、オースタライエン号の2倍は優に超す外国航路定期船だ。この会社名は聞いたことがある、そう津本陽の「小説渋沢栄一」に出てきた。のちにあの岩崎弥太郎が死闘を演じ、日本から駆逐してしまった当時世界の海を制覇していたイギリスの海運会社である。
 シンガポールでは例のコイン投げを見る。桟橋のイギリス婦人が海中にコインを投げ、地元の若者がこれを拾いに競って潜る情景だ。渋沢栄一もこれを上海で目撃し、アジアの現実として眉をひそめている。もう一つ、出港時、埠頭で夫婦が別れを前に接吻するシーンに驚く。これについては岩倉使節団の米欧回覧でも特記されている。やはり当時の日本人には仰天の異文化だったのだろう。
 次いで、ペナン、セイロン島ゴウルを経てインドのボンベイに寄港する。ここで馬車で近郊を見物した時にはじめて蒸気機関車を目にする。『まるで飛ぶように走っど、走っど』と度肝をぬかれて見とれた、ということである。大きな人造湖蒸気機関で動くポンプによる送水システムに感心する。そして2,000トン余の大型郵船ビナーリエス号に乗り換えアデンに向かう。
 アデンでもコイン投げを目にする。ここでコイン投げを演じるのはイギリス人船客と集まって来た子供達だ。2,000人の英軍の駐留や要塞を目撃し、蒸気機関を使った海水からの生水の生成に感心する。すでにこの地で確立していたイギリスの海上交通運営システムの威力をまざまざと見せつけられた。
 そして紅海からスエズ運河の入り口の街、スエズに上陸する。製氷工場や港湾施設に感心し、大型浚渫船に注目する。続いてフランスによるスエズ運河工事を見学、その現実と迫力に圧倒される。『その風景はとても人間業とは思えず、なにか天魔鬼神の所為のようにしか見えなかった。』とのことである。一行はこのスエズから蒸気機関車による一昼夜のはじめての鉄道旅を経験する。それは20両の客車に貨車を連結した本格的なものだった。
 着いた先はカイロ。ここで出迎えのボーイから『お待ち申し上げておりました、サツマのご一行さま』という言葉を聞く。初めての汽車旅の速度に驚いていたのに、それよりも先に情報が到達している。一行の多くはここではじめて「電信」の威力を知った。引率するホームからイギリスが推進中の海底ケーブルも含めた世界的な電信敷設計画の説明を受ける。佐久間象山ではないので、線路沿いの電信柱の架線のことを教えられても、鉄道より早い情報伝達の仕組みは信じがたいものだった。
この鉄道と電信の組み合わせの情景、現代でも鉄道会社のインターネット事業参入で演じられた図式と二重映しになって面白い。
 汽車旅は次にナイル川を渡ってギザへ。ここでも先回りした「電信」で途中の駅舎内のホテルでの朝食手配など完璧だった。そしてピラミッドを遠くに見てアレキサンドリアへ。そこはもう西洋だった。ここから地中海への再びの船出を含めて旅はあらかじめ「電信」によってすっかり手配されていた。
 林望は静かに描いている。
 『「ふーむ。電信は、たいそう便利なもんやな」
 しきりと感心する新納を、松木や五代が朗らかな微笑を浮かべながら見守っている。
「どげんな、吉田どん、こいでもまだ攘夷をやってみたかかな」
五代がからかうように吉田のほうを振り返った。
「もう、そいは言わんでください。ものを知らんということは、恐ろしかこっですなあ。つくづくと、そう思いもした。じゃっで、五代さあ、もうそんことは言いっこなし。頼んもす」
「まあ、勘弁してやっか、そいじゃ」
 一同がどっと笑った。』
 
 現代の日本で、国際的な技術競争下にある日本企業で長く働いた者として、面白がって聞き流せる会話ではない。胸のつまる一幕だ。
 この引用中の新納は帰国後家老職に戻り維新を乗り切った。松木はのちの寺島宗則で、外務卿、文部卿、そして枢密顧問官になった。五代はのちの五代友厚、関西財界を代表する大実業家になった。大阪商法会議所初代会頭である。目下NHK朝ドラ、「あさが来た」に登場し人気急上昇だ。吉田は吉田巳二、このあと米国東海岸、ラトガス・カレッジ等で学び、新政府の様々な部門で活躍、枢密顧問官になった。
 アレキサンドリアからは3,000トン近い新鋭の巨大商船デリー号での地中海の旅になる。マルタ島に立ち寄り、迫力の要塞都市ヴァレッタを見学、三百年余の歴史のある大図書館に驚く。これは一行の何人かに大きな印象を残した。その後一週間の船旅で、ジブラルタルに寄り、ポルトガル、つまり南蛮国沖を通り、スペイン沖からイギリス海峡を経てポーツマスの軍港を通過した。船上から見る軍港の迫力は、停泊している艦船といい、港の施設といい段違いだった。そしてサウザンプトンに入港、上陸した。ここから再び鉄道旅でいよいよロンドンへ向かう。
 ここで五代は目を瞠る体験をする。ホテルでホームがロンドンのジム・グラバー(トマス・グラバーの弟)へ電信を打ち、ほどなくロンドンからの返信が届き、さらに電信でやりとりする様を目撃したのだ。
 一行は汽車旅でガスタンクに驚いたりしながら、『イギリスは美しか国だ』との印象をもって、ロンドン、ウォータールー駅に到着する。今度はトマスの兄のジェームス・グラバーと用意周到な出迎えが待っていた。五代が目撃したサウザンプトンからのテレグラフの威力である。
 手配されていた二階建て馬車、オムニバスに乗ってケンジントン・ゴアのケンジントン・ホテルに落ち着く。宿泊料1泊1ポンド、約二両三分と教えられて仰天する。林望によると現在の貨幣価値で26万円相当ということだ。為替のこともあり日英の国力差は絶望的だった。そのあと留学生はアイブリッジ・ロード、今のベイズウォーター・ロード、ポーチェスター・テラスに落ち着き、高濃度の留学生活が始まることになった。
 個人的な経験で恐縮だが、このウォータールー駅からケンジントン・ゴア、そしてベイズウォーターに至る道筋はそのほとんどが、数年前にロンドンを訪問したときに2階建てバスや徒歩で通っていたところだった。宿泊したホテルもこの道筋に近い。林望の描くいかにもこれがロンドンといった眺めに接しながら、とても懐かしい気持ちになった。ウォータールー・ブリッジ、キングスカレッジ、ストランド大通り、バッキンガム宮殿、ハイドパーク・コーナー、ケンジントン・ロード、プリンス・アルバート・ロード、王立園芸協会庭園、ケンジントン・ゴア(このあたり現在の王立音楽学校、自然史博物館、ロイヤル・アルバート・ホール)、ベイズウォーター・ロード、ポーチェスター・テラス・・・。
 物理的にはロンドンの街並み保全により、薩摩スチューデントの時代も現在も雰囲気はあまり変わっていないのではなかろうか。しかし、薩摩スチューデントと現代の日本人では、その見え方は全く異なるものになった。その間には150年の激烈な歴史が横たわっていた。(完)

(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)