「幕末・明治モノ」に覗く「電気情報通信」(4)

佐久間象山」:松本健一に導かれて(上)

象山神社の謎

 長野に知人ができ、しばしば訪れるようになった。東京から訪問すると筆者の趣向を見計らって近隣を案内していただける。今夏はもちろんまずは善光寺ご開帳。賑わう門前を楽しんだあとに、プラス・アルファでいくつかのスポットへ。それが今回はなんと「松代象山地下壕」。象山は「ぞうざん」と読み、これはその地下壕の地名だ。あの大東亜戦争末期、本土決戦に備えて大本営や皇居などの待避を考えて構築した未完の巨大地下壕の跡である。

 現地へは車で案内されるが、地下壕の前に駐車場は無い。ちょっと離れたところの象山神社の駐車場を利用する。筆者は浅学にして「ぞうざんじんじゃ」と聞いてもピンとこなかった。
 それは神社の入り口に立てば分かる。大きな鳥居の横に、一人の男子の颯爽とした躍動感溢れる騎馬像がある。「佐久間象山先生」像。ここは真田氏が心血を注いだ松代城下、幕末の革命思想家佐久間象山の生家跡を中心にその偉業を祀った神社なのだ。日本でも立派な騎馬像は時々目にするが、それは仙台の伊達政宗のような戦国武将でもなく、萩の山縣有朋のような軍人でもない、実に「かみしもと袴」の姿だった。偉大な先覚思想家、それもときの政権にとっては危険だった戦闘的な革命思想家が、故郷の生家跡で祀られていた。
 境内を散策すると、社殿のほかに広めの生誕跡地や吉田松陰の密航未遂(下田踏海事件)に連座して9年間蟄居を命ぜられた旧家の別棟を移築した「高義亭」、ゆかりの茶室を京都木屋町の鴨川畔から移築した「煙雨亭」など、革命・維新の香りの構築物が点在する。
 いくつかある石碑のひとつに綺麗な立て札があった。流麗な石碑の文字は読みにくいが立て札の説明は鮮明である。
『この碑の読み方
 余年二十以後、乃ち匹夫も一国にかかわり有るを知る。三十以後、乃ち天下にかかわり有るを知る。四十以後、乃ち五世界にかかわり有るを知る。
 注 一、当時一国は、松代藩、天下は日本国、五世界は全世界を言う。
   二、碑陰の文は裏面にあります。
象山神社
日本電信電話公社
 立て札のおかげで碑文の意味はおおよそ分かる。あとで調べた。これは蟄居中憂国の至情で記された名著「省諐録」(せいけんろく)の最後の一節、「有るを知る」は、そういう重要な立場にある事を悟る、という意味だそうだ。「なーるほど」、読んで少々自己嫌悪になる。「省諐録」は佐久間象山の代表的な著作で岩波文庫にあるが、原文は漢文、読み下し文が併載されているが現代語訳はなく、情けなくも浅学の筆者では読み解けない。
 「あれっ!」と思ったのはこの立て札に記されている「日本電信電話公社」である。なんでここに電電公社? この石碑のスポンサーなのだろうか。裏面にこの碑が1964年の百年祭を契機に建てられたことが記されている。
 調べてみた。なんと佐久間象山は和洋砲学に優れ、日本で最初の電信機の開発者にして電信実験の成功者だった。この近くには佐久間象山発明の電信機で日本初の電信実験を成功させた松代藩の鐘楼がある。その通信距離はそこから御使者屋までの70m。時に嘉永二年(1849年)、ペリー来航の4年も前のことだ。また「日本電信発祥之地」の碑もあり、このあたり、「日本電信発祥の遺跡」として長野市文化財となっていた。
 思わぬところで佐久間象山に巡り会った。それも「電気情報通信」分野の大先覚として。Webサイトを叩いたら夥しい情報が出てきた。折しもNHK大河ドラマは「花燃ゆ」、とても興味深い。読みやすい評伝などはないのかと探すと、あった。今年になって出版された文庫本、昨年逝ったあの松本健一の最後の作品、そのタイトルはずばり「佐久間象山」。
 早速読んでみた。
 上下巻全780ページの大著、文体は平易だが中身は濃い、というよりも凄まじい。本書は、残された書簡など膨大な文書を読み解き、アヘン戦争からペリー来航、吉田松陰下田踏海事件、開国、日米修好通商条約締結、安政の大獄、咸臨丸の航海といった劇的な時代を疾駆したおびただしい群像の中の佐久間象山を描くことで、その思想と歴史へのインパクトを浮き彫りにしている。松本健一は、『思想は歴史をかたちづくる』、『かれが表明した思想は、その後百五十年間、つまりほぼ現在までの歴史をかたちづくってきたわけだった』、と総括している。
 
 ではその中で「電気情報通信」はどうか。出てきた。直接的には2カ所登場する。
 佐久間象山の波乱に満ちた54年の生涯は、松代と江戸を往復し、この間遊学、修行、調査旅行、あるいは9年におよぶ松代での蟄居生活、そして最後の上洛もあり、とてもダイナミックだ。この中で江戸藩邸時代、天保十二年(1841年)、藩主、真田幸貫(ゆきつら)が老中・海防掛、すなわち国防大臣相当に就任し、佐久間象山は海防掛顧問に任じられた。これが、この数学には強かったが伝統的な知識人だった藩の俊英に新しい未来を開くことになった。時代はアヘン戦争進行中である。
 真田幸貫は幕府の砲術担当、高島流砲術師範の江川太郎左衛門を藩邸に招いて、その西洋砲術を実演させ、佐久間象山をこの江川太郎左衛門に入門させた。この砲術は長崎の高島秋帆の西洋砲術研究から伝えられたものである。
 江川太郎左衛門は代々伊豆半島を支配する韮山の代官で、のちにお台場を構築したり、三男が韮山反射炉を作り、五男があの岩倉使節団に参加したりと歴史を彩る人物である。余談だが、今日お台場が韮山から贈られた河津ざくらで包まれているのはこうした縁による。
 この機会から佐久間象山は洋学にのめり込み、清国のアヘン戦争敗北という現実を前に海防策を考えながら、世界に視野をもった愛国的な思想家・指導者になってゆく。
 佐久間象山はこの環境で思想を固めて行くがその中に清の魏源への評価と批判がある。魏源はアヘン戦争を戦った林則徐の盟友で、林則徐の依頼で「海国図志」(100巻)を著す。これはイギリス人マレーの「世界地理大全」を訳しながら多く加筆したもので、当時の世界地勢を著す書として幕閣はもちろん幕末の志士たちに競って読まれた。
 魏源にはもう一つ「聖武記(せいぶき)」という著作があり、これには清国の歴史と海防論が述べられている。これは今日Webサイトを叩けば原文が見れ(例:早稲田大学図書館)、たとえば岡山大学新村容子教授(執筆時)の詳しい研究などもすぐに読める(「佐久間象山と魏源」岡山大学大学院社会文化科学研究科 『文化共生学研究』第6号(2008.3))。当時その海防論尾張藩の鷲津毅堂による和訳が出版され、これがために鷲津毅堂は幕府に睨まれ密かに江戸から逃げ出す、というような一幕もあった。
 佐久間象山はこの中の海防論を持論と同じだと評価しながらその出版が自分の「海防に関する藩主宛上書」の僅か4ヶ月前にすぎないと自慢し、一方で魏源と自分との違いを強調し批判もしている。その違いとは、魏源には海戦の考えが無い戦略上の欠点があり、軍艦や大砲を作る科学技術に疎い、技術軽視の弊に陥っているというものである。その批判の根元に、「およそ何事も自分で作ってみなければ分からないだろう」、という考えがあり、魏源はそれをしようとしなかった、という指摘である。
 魏源は「夷の長技を師として夷を制す」といい、佐久間象山は「夷の術を以って夷を制す」といい、両者は進んだ西洋文明を手にして西洋に対抗しようというところでは同じだったが、魏源は技術軽視で自らこれをしなかった、ということである。
これに対して佐久間象山はそれこそ何でも作って、経験してやろうとした。7年間の江戸滞在ののち弘化二年(1846年)、郡中横目役として松代に赴任した佐久間象山は、藩を背負う形で、それこそありとあらゆる試作に取り組んだ。
 それは、ガラス製造、豚の飼育、葡萄酒の醸造、洋砲の鋳造、火薬の製作、写真機の製作、そして電信機の製作と実験である。松本健一はそれを、『かれが独力で西洋文明を作り上げてゆくかのような試みだった』と表現している。
 筆者にはこの佐久間象山の姿勢と1960年代以降の電電公社が重なって見える。電気通信網は沢山のシステムをつないで構成される。足りないものを買ってきてネットワークに当てはめれば当座の需要に応えられる場面は沢山ある。しかし電電公社はそれをしなかった。
 今日、NTT武蔵野研究開発センターの技術資料館へゆくと、その大規模な展示からこれまでの電電公社、NTTの研究実用化の規模に圧倒される。そこには要するに電気通信に必要なありとあらゆる部品や方式(システム)を研究・実用化してきた膨大なエビデンスが強烈な迫力で並んでいる。全部自ら作って、そして実用に供してきたわけだ。
 自らの手で作って、使ってみなければ分からないだろう、という考え方が連綿と流れているのが感じられる。ここに1960年代の電電公社佐久間象山に共感を覚え、その百年祭に象山神社の石碑建立のスポンサーとなった「こころ」が読み取れる。その「こころ」はもちろん現在のNTTグループにまで連綿と引き継がれているに違いない。

(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)