閑話休題:吉野ヶ里遺跡 未盗掘石棺墓の調査 金印「親魏倭王」出土の期待から想起する古代交易モデル

経済記者シニアの会に掲載したコラムです。コメントは本編()に書き込んでいただけると嬉しく思います。

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復元集落遠景:佐賀県教育委員会

 

 春闘の賃上げはどうだったのか/異次元子育て支援の実態は?/軍備増強と敵基地攻撃能力に48兆円か/首相公邸で乱痴気パーティとはね/政治家業の世襲・七光り親ガチャ問題もあるぜ/トラブル多発でもマイナンバー制度は不退転(改正法が成立したらトラブル報道って何?)の覚悟/どうせ総選挙のあとは増税ラッシュ/福一汚染水の海洋放出は既定路線……。

 どれ一つとっても異論反論オブジェクションなのに、かてて加えてオオタニくんは大活躍だし生成AI(generative artificial intelligence)は人知を越え、梅雨本番前に線状降水帯が多発と、話題は尽きません。

 筆者の軸足はエンタープライズ系ITなので、マイナンバー誤情報ひも付け問題を取り上げるのが妥当なところかもしれません。しかし「ヒューマン・エラー」に帰着させる矮小化の屁理屈を覆すのに十分な情報収集ができていない、という言い訳をしつつ、今回は閑話休題、たま〜にこんな話題もいかがでしょうか。

未盗掘だし朱塗りだし被葬者は小柄だし


 ひょっとするとひょっとするかも――にわかな期待が高まったのは7月5日から本格調査が始まった吉野ヶ里遺跡の石棺墓です。「ひょっとするかも」というのは、卑弥呼女王が中国の魏の明帝(曹叡226〜239)からもらった「親魏倭王」の金印が出てくるかもしれない、という期待です。

 石棺墓は「北墳丘墓」の西側、集落全体を見渡すことができる丘上に位置しています(といっても筆者は現地に出向いていませんので、報道や資料によると、です)。去年まで「日吉神社」が建っていて、確認できる限り、盗掘された形跡がないそうです。

 北墳丘墓からは14の甕棺が出土していて、歴代の村長(ないし「王」)の埋葬区画とされています。石棺は単独で別区画を占有しているように見えるので被葬者はかなり特異な存在だったのでしょう。

 覆っていた石を外したら内部に「朱」(丹:辰砂)が施されていた(ということは間違いなく王様だよね)、石棺は長180×幅36×深30㎝だった(ということは屈強な男性じゃなくて、年老いた女性→そういえば卑弥呼さんは女性だよね)というつながりから、「親魏倭王」の金印が出てきたら、これはもう吉野ヶ里邪馬台国の決定打じゃないか、と古代史ファンは盛り上がっていたわけです。

専門家は金印出土の可能性に否定的


 平泉・高館堂が源義経の埋葬地、円覚寺の佛日庵が、鎌倉幕府8代執権・北条時宗のお墓の上に建っているのは広く知られています。古墳の墳丘上や水濠内の衙頭に石像や埴輪で「在りし日の王」の姿を再現して、その子孫や民衆が偲んだり拝んだように、北墳丘墓とその西側の丘陵石棺墓は祖霊を祀る聖地だったと推測されます。

 金印が出てくるかも……の期待はあえなく打ち消されたかっこうですが、発掘調査の前から、専門家は金印出土の可能性には否定的でした。なぜなら卑弥呼女王が魏の皇帝から賜った「親魏倭王」の印影は、極東アジア世界における交易市場で公的な身元証明として使われたからです。

 梱包した荷物を粘土で封をして、その上から印を捺す。すると文字が浮き出て、魏皇帝が認可した倭王の交易品であることが一目瞭然で分かります。それがあると交易市場で物品をやり取りできる(つまり極東アジアに経済活動に参加できる)のです。ぐっと時代が下った勘合貿易の「割り符」と同じ意味がありました。

 印綬卑弥呼女王個人の所有物ではないので、遺体とともに埋葬されるものではありません。埋葬されたのは、卑弥呼個人に下された「鏡」とか綾錦の布だったと考えるのが自然です。実際、魏の皇帝は倭人の王が女性と知って、大量の絹織物や刺繍した綾、装飾品や化粧道具を贈っています。

 となると、金印は卑弥呼の跡を継いだ男王のときの内乱(茶壺「初花」が天下人の証だったように、金印の争奪戦が繰り広げられたのでしょう)で海に沈んだか行く方知れずになったか、でなければ男王を退けて王となった「卑弥呼宗女」の臺與(235〜 ?:倭の音は「トヨ」「イヨ」?)が相続したはずです。

 西暦265年の12月に司馬炎(236〜290)が魏帝室から祭天の儀権を簒奪して「晋」帝国を建てた翌年、倭人の王が洛陽に使者を送っています。もしその王が臺與だったとしたら(そうでなかったとしても)、「親魏倭王」の印は中国皇帝に返却され、代わりの印綬が下されたと考えられます。

東晋樹立の317年が東アジア経済圏の転換点


 ネットでは今回の発掘調査に対して「空振り」「がっかり」の声があがっています。ばかりでなく、「二重構造かも」「呪術的な埋葬施設?」「取り除いた土砂のDNA分析を」あるいは「そもそも卑弥呼って実在したの?」「これで奈良県纒向遺跡が有利」等々、喧しくコメントが飛び交っているようです。

 ですが今般の発掘調査は、ほんの序の口にすぎません。何も出てこなかったからといって吉野ヶ里の価値は変わりませんし、むしろ福岡県志賀島出土の「漢委奴國王」印や大分県日田ダンワラ古墳出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎん・さくがん・しゅりゅうもん・てっきょう)の再検討、吉野ヶ里から目と鼻の先(約20km)、八女市の岩戸山古墳の主である筑紫王磐井や太宰府との関係など、新しい考察が生まれてきそうです。

 ここでちょっとだけ「経済記者」的な視点に立つと、4世紀以後、極東アジア経済圏における交易はどのように行われたのか、という興味が湧いてきます。中国皇帝が認定した周辺異族の「王」の印影が、市場取引における公的証明だったのは晋帝国の時代までです。以後も印綬制度は続きますが、朝廷内の官職位階勲等を示す公的な証明となって行きました。

 西暦317年に司馬炎の晋が滅び、晋の王族である司馬睿が建康(現在の南京市)を都とする「晋」を樹立しました。司馬炎の晋を「西晋」、司馬睿の晋を「東晋」と呼び、長江以北を騎馬民族系の王権が目まぐるしく興亡する南北朝ないし五胡十六国時代が続きます。

 漢・魏・晋(西晋)の時代、極東アジア交易圏の最大のメリットは、西域と南船北馬です。タクラマカンを越えてインド、アラビア、エーゲ海、ローマまで、船と駱駝が往来して東西の文物を運んだのが西域、沿海州黒龍江以北の海産物や獣皮革、越南や南沙諸島以南の果実や香辛料をもたらしたのが南船北馬

 それが長江で分断されたのが東晋五胡十六国の時代です。それを境に交易市場を管理監督し利益を配分する機能が中国皇帝から離れ、商隊を統括する有力者が担うようになって行きます。「王」はそのなかの有力者ですが、絶対的ないし独占的な支配者ではなくなったということができるでしょう。

鏡でも印綬でもなく「将軍」の爵位がほしい


 「謎の一世紀」を経て、永初二年(421)、宋の武帝劉裕:363〜422)に使者を送った倭讃(倭人の「讃」という倭王か、「倭」という苗字の「讃」のいう名前の王か不明)は、除授(爵位)を求めています。鏡でも印綬でもなく、「将軍」の位がほしい、というのです。

 その肩書きは、商隊や移民を護衛する軍兵の頂点に立つ公認された者であることを示します。肩書きが何を意味しているかといえば、一つは相手(百済新羅、高麗といった隣国)が漢字文化を共有していたこと、もう一つは商圏を軍事力で維持拡大する帝国主義的権力構造が登場したと解釈できるかもしれません。

 ――というあたりで、経済記者的考察はいったん閉じることにしておきます。

 

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閑話休題:本来は「無駄話は止めにして本題に戻ります」味ですが、ここでは「本題を休んでちょっと無駄話」の意味で使っています。