「幕末・明治モノ」に覗く「電気情報通信」(3)

岩倉使節団の世界旅行

久米邦武の「米欧回覧実記」(下)

欧州・亜細亜

 米国・ボストンから大西洋を渡った岩倉使節団の旅、イギリスはリバプールに上陸して、エジンバラ、ハイランド地方、ニューカッスル、ブラッドフォード、シェフィールド、バーミンガム、チェスター、ロンドン、ポーツマス、ニューヘブン、そしてドーバーとくまなく回り、徹底して産業施設を見聞し、文化を感じ、要人と面談している。

 ロンドンではシティの電信局を訪れ、局内の仕掛けを見るとともに、イギリスの電信事情、電報のメカニズム、大英帝国内の状況を詳しく調査している。同様に郵便局もたずね、また郵便の実情と制度を詳しく調べている。次に一行はドーバーから海峡を越えてフランス・パリに入った。ここで久米邦武は訪問先の見聞記を著す前にフランスの国勢を詳しく調べ、フランス国総説として様々な事項を報告している。
 その中に電信線の総延長、書簡郵便物の総数、書籍小包の総数、郵便料金収入の額などがある。個別の訪問記では、パリの広大な図書館(ビブリオテーク・ナショナル)訪問がある程度で、電信局などの記述はない。パリでは印象に残った文物が多すぎて省略されたのかもしれない。
 続いて一行はベルギーのブラッセル、オランダのハーグ、アムステルダム、そしてドイツに入ってエッセンを経てベルリンを訪問した。ここでは電信局訪問記がある。電信局が陸軍の管轄下にあり、兵士が運営していることを紹介している。
 兵士には平時には仕事が無く、だらしなくなる心配があり、また除隊後に役立つ技術を身につける為の工夫ということ、電信局の建物が英国より大きいこと、モールス符号の印字型機械を多用し、文字へのプリント型は熟達が必要なので少なく、これは他国と同じ傾向であること、局内ではメッセージ伝達に空気圧送管を使用していること、これはドイツで発明され英国に伝わったことーーなどを紹介している。
 そのあと一行はベルリンからロシアのサンクトペテルブルグ往復の大旅行を敢行した。しかしここでは蔵書数100万冊という大図書館の訪問記があるが、電信局訪問などの記述はない。
 ロシアの旅のあと再びドイツに戻り、今度はハンブルグを経て、デンマークコペンハーゲン、そして北欧、ストックホルムを往復し、フランクフルトからミュンヘンに至る。
コペンハーゲンでは特記すべき出来事があった。
 デンマーク使節団一行の接遇の中心になったのは地元実業界の大物で、その人物はデンマークを代表するグレート・ノーザン電信会社の社長だった。この会社はすでに日本政府と契約して上海ー長崎間の海底ケーブルを設置していた。ノーザン社本社は屋上に螺旋の尖塔を据え、市内でも目立つ奇観だったとのことである。
 一行の招宴は証券取引所の建物で行われ200人の会食者を集めた盛大なものだった。首相、外相、市長、産業界のリーダーが揃ったということである。日本が先進技術に関する海外からの重要な顧客として国を挙げての接遇を受ける、そういう場面が現出した。
 以前、慶応三年(1867)に徳川昭武一行が欧州巡遊の折、スイス、ヌーシャテルの街で時計製造工場を訪れ、幕府が購入予定の文字摺出し型の電信機の製造を視察する場面があったが、それから僅か数年、日本のささやかな進歩といえよう。
 そのあとの旅はイタリアへ、ローマ、ナポリフィレンツェヴェネチアを経てウイーンに至る。ヴェネチアで130万冊の蔵書を有する文書館を訪問したときのかなり詳しい報告がある以外は、電信などの話題はない。ウイーンではなんと万国博覧会開催中だった。あの徳川昭武が派遣されたパリ万国博覧会から4年が経過していた。
 そして旅は終段、スイスのチューリッヒ、ベルン、ルツェルンジュネーブを経てフランスのリヨン、そしてマルセーユから海路帰途についた。この間、スイスの電信事情、ベルンの博物館の図書室訪問記などがある。
 帰途で目にした、ポートサイド、スエズ運河および、アデン、セイロンのゴール、シンガポールサイゴン、香港、上海といった寄港地の厳しい現実は世界の実像に触れるという意味で一行に深い印象を与え、この大旅行を総括するのに充分な時間と空間を与えた。
 久米邦武ほか使節団一行は、米欧各国の歴史、文化、国勢に関するはっきりとした俯瞰図を描くことができ、その富強の基盤に蒸気船、蒸気機関車、電信・郵便があること見抜き、そして先進国に対する日本の基本的な劣位が、科学技術、産業・軍事技術上の課題に偏在している事を悟り、その差がたかだか40年であると感じた。そして見聞した各国の国情、国勢、そして使節団への歓待ぶりから、求められているのは貿易・通商であって、差し迫っての他のアジア諸国で見られたような直接の侵略の危険はないという認識に至った。
 
 この岩倉使節団、筆者にはちょっとした個人的なリアリティがある。筆者の曾祖父が廃藩置県の前に藩の留学生としてアメリカ東海岸に派遣されていて、そこで滞在中に使節団の人物と会っている。
 当時そのあたりにはすでに日本からの様々な留学生がいて、それこそ皆で活発に議論し意気投合したに違いない。帰国後いずれも政府に出仕し、力を合わせておおいに仕事をしている。このようなことは使節団の行く先々であり、その後の日本の国家運営や産業・学術・教育・芸術活動などに、使節団に直接参加した人々の範囲を越えてはばひろく影響を及ぼしたことだろう。


(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)