「幕末・明治モノ」に覗く「電気情報通信」(2)

岩倉使節団の世界旅行

久米邦武の「米欧回覧実記」(上)〜米国〜

 明治四年(1871)に横浜港を出発した岩倉使節団の1年10ヶ月におよぶ世界一周視察旅行は、不発に終わった不平等条約改正交渉という目的を越えて、その後の日本だけでなく、アジア、そして世界の歴史を形成する空前絶後の旅となった。その強烈なインパクトは140余年後の今日の世界情勢の中にも連綿と流れているように見える。

 現代の我々はその旅の全貌を、使節団の記録係・久米邦武が著した「米欧回覧実記」全5巻の現代語訳、全2,200ページ超(水澤周訳・注、2005年上製版、2008年普及版出版)、1976年から岩倉使節団の足跡を追ったノンフィクション作家で岩倉使節団研究者として知られる泉三郎の「堂々たる日本人 知られざる岩倉使節団」(1996年初版、2004年改訂)、そして同氏のナレーションと1,000余枚のスライドによるDVDビデオ「岩倉使節団の米欧回覧」165分(2006年)などで、その旅の凄まじさに比し手軽に、しかしじっくりと味わうことができる。
 使節団は特命全権大使岩倉具視、副使・木戸孝允、同・大久保利通、同・伊藤博文、同・山口尚芳による公式のもので、このほかに日本の国家指導を嘱望されたいわば若きエリート群と留学生が全国から組織され、出発時48名だった。明治政府はその先の国家運営のため政府を二分し、半分を2年にまたがる海外調査に送り出し、残りで留守を預かるという思い切った政策を実行した。
 旅の状況は今日で言えば天皇陛下の海外公式訪問のような形で、各国大統領や国王謁見を含む公式行事が旅の期間中休むことなくびっしり続いた。訪問国は米欧12ヵ国、全旅程を通してどこでも今日では想像もつかない徹底した大歓待を受けた。
 スタートは太平洋を渡って、米国から東回りで米欧をめぐり、帰路、開通2年目のスエズ運河を経てアジア海路を一通り辿った。見学先にはありとあらゆる重要な軍事・文化文教・産業施設が含まれ、国家指導者、軍人、官僚、学者、各界の名士ほか産業界の重鎮、指導者と面談し、重要な示唆を沢山得た。
 また行く先々で、当時様々な形ですでに米欧に滞在していた先進的な日本人と幅広く交流し盛んに情報交換した。もちろん使節内では旅行中濃密な意見交換が続き、いわば長期海外合宿状態であった。その使節団に「電気情報通信」はどう映ったか。
 久米邦武の記録では、表層的には国勢全般、風光、文化・文教、建築物、各国指導者、そして鉄道、軍事、産業に関する記述が多いように見えるが、電気情報通信の米欧先進国における役割はしっかり見抜いていた。久米邦武は旅の総括で、蒸気船、蒸気機関車、そして郵便と電信の力によって先進国の豊かさと強さが維持・運営されていることを強調している。
 では久米邦武「米欧回覧実記」に導かれて、その足跡を追ってみよう。
 まずは最初の訪問都市サンフランシスコでビッグ・イベントがあった。米国は連邦政府の命で使節団の訪問に合わせて6,000ドルをかけてワシントンとの電信回線を開通させていた。使節団は電信局を訪問、ここで、ワシントンにいるフィッシュ国務長官、電信機の発明者モース氏、それに訪問予定のシカゴ市長と通信を取り交わした。
 この日の夜にはサンフランシスコ市民の招待による大歓迎宴が開かれている。使節にこの電信を見せるとことが歓迎側にとっても一大イベントであったことが想像できる。一行は太平洋を渡ることで蒸気船の威力を知り、到着してすぐに大陸を渡る電信の力を見せられ、つぎに大陸横断の旅に出て鉄道の素晴らしさを味あわされることになる。
 一行はまだ、いわゆる「西部劇」の景色が広がっている大陸を、2年前に全通したばかりの大陸横断鉄道でシカゴに到着する。そこで街路を覆う電信線に目を留める。久米邦武は「ほとんど100本にも上る電線が集まってまた四方に散っている様は、まるでクモの巣のようだ」、と表現している。ここでは商品取引所もしっかりと見学している。
 ワシントンでは広大なパテント・オフィス(特許登録事務所)を見学した。その展示品の中で理系に強い久米邦武は代表的な発明をいくつか紹介している。蒸気船の発明につづいて電気の発明とベンジャミン・フランクリンの業績、そして電流の発見からさらにモースの電信機について触れている。
 そのあと一行はプリンティング・オフィス(印刷局)を訪れ、蒸気機関を使った高い印刷力に感心し、これが米国全土で安価に書籍を買える環境を実現し、学問が一般の民衆へ高く普及している点を指摘している。
 さらに壮大な中央郵便局も見学し、集配のメカニズムだけでなく郵便制度やその輸送システムとの関係、為替のしくみなど詳しく取材している。
 フィラデルフィアを訪れたとき、この地が教育に熱心なことに着目し、図書館を見学した。市内に4つも図書館があることに感心している。
 ニューヨークではトリビューン新聞社を訪れ、さらに沢山の新聞が盛んに発行されている新聞事情を調査している。国民の半分が新聞を読んでいるとみて、新聞が文明に与えている影響に考えをめぐらした。
 次いで電信のウェスタン・ユニオン本社を訪れ、クリーブランドやワシントンとの通信を試み、瞬時に「使節たちの平安を喜ぶ」という返答をもらって感心している。久米邦武はここで米国の電信の発展とモース氏の業績を調べて紹介している。
 このあと一行はボストンを訪れ、ここから大西洋を越えてイギリスへ渡った。
 東京、目黒駅前の一等地に、角地を活かして曲面を使ったオフィスビル風のビルがあり、その最上部を見上げると「久米美術館」の表示が目に入る。実際にここの8階に久米美術館があり、久米邦武と息子、洋画家の久米桂一郎の業績、作品が展示されている。久米邦武は「米欧回覧実記」の執筆・編集により政府から受けた多額の報奨金で目黒に邸宅を購入、そして息子をフランスへ留学させた。久米美術館(久米ビル)はその邸宅跡地に建っている。岩倉使節団派遣の確かなエビデンスである。

(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)