2つの技術史展示館を訪ねて(3)

 次に案内されたのが「池田記念室」。あの伝説の池田敏雄、プロジェクトXの世界である。池田敏雄もプロジェクトXも、今となっては歴史の彼方、やはり60歳以降の記憶の中だ。
 池田敏雄は当時コンピュータ開発に関係した世代で知らぬ者はないが、その業績を知らぬ人に紹介するのは極めて難しい。あまりにも時代背景が変化し、その意義が伝わらない。あえて言えば、池田敏雄は富士通のコンピュータ開発と事業を牽引し、大きく発展させた天才技術者、日本のコンピュータ産業の父と評価される人物、とでもなろうか。

 コンピュータ・アーキテクトとして数々の名機と言われるコンピュータを生み出しただけでなく、我が国の産業史を彩る2つの事業をすすめた。一つは当時のコンピュータ事業の世界的な覇者だったIBMを凌駕するために、IBM互換機路線をとったこと、そしてこのために、米国のジーン・アムダール博士(Dr. Gene Amdahl)との間に友情関係を育み、氏の創設したアムダール社Amdahlと強い提携関係を構築、当時一般には不可能と考えられていた互換機を実現し、その事業を成功させた事である。

 今日、日本の電気情報通信の領域で活動する人々で、ジーン・アムダールとアムダール社を知らない人は多い。IBMについても社名は多少浸透しているものの、特に若い人にはIBMが一体どんな企業なのか、そしてどんな背景があったのかほとんど知られていない。

 かつてコンピュータの世界でIBMの存在は技術においても、製品においても、そしてビジネスにおいても圧倒的な存在で、文字通り世界の覇者であった。これに対してコンピュータの社会での重要性、そして何よりもその事業の将来性を考え、多くの企業が様々なコンピュータを開発し挑んだが、なかなか成果を上げられなかった。
 富士通もそうした挑戦者の一つだったが、社を挙げての不屈の挑戦欲と、池田敏雄の天才、あるいはその人柄によって日本市場のなかで徐々に力をつけていった。
 そして日本の国策、すなわち通産省通商産業省;当時:現在の経済産業省)の情報処理振興策の立ち上げと軌を一にしてIBM互換機を開発し事業展開する方針を選んだ。
同じ頃米国にも強力な挑戦者がいた。それが、IBMで最新のコンピュータシステムを設計したジーン・アムダールで、IBMを退社し、米国西海岸、シリコンバレーに自らの名を冠したベンチャー企業アムダール社を立ち上げ、IBM互換の製品開発に打ち込んでいた。
 日米間で今ほど人の往来が活発でない時代、池田敏雄は米国に乗り込み、またジーン・アムダールを日本に呼び寄せ、二人の間に深い友情を育んだ。そして、富士通とアムダール社の間に極めて強力な事業上の補完連携を実現し、追ってそれぞれの製品で世界のコンピュータ市場の一角を席巻することになった。
 池田敏雄はこの事業が軌道に乗りかけたまさにその時、激務の中、羽田空港で海外からの来客を迎える仕事のさなか昏倒し(くも膜下出血)、唐突に帰らぬ人となった。享年51歳。 

とんかつ「あたりや」(大岡山)

 プロジェクトXは、NHK-TVで2000年3月から2005年12月迄放送されたドキュメンタリー番組シリーズである。「挑戦者たち」、という副題が付けられ、産業、文化事業などを素材に人々が困難を克服して大きな成果に結びつける様が描かれ、多くの感動を呼んだ。新幹線、YS-11ロータリーエンジンなど、皆が知る成果と、これに対しむしろ無名の人々の奮闘が描かれることが多かった。また番組は、中島みゆきの「地上の星」と「ヘッドライト・テールライト」という2つの魅力的な歌に包まれ、田口トモローのナレーションに導かれて、毎回異なる話題でありながら、一貫した独特の雰囲気を醸し出していた。特に、これまでを少し振り返る気持ちの出来てきた企業戦士達のこころをしびれさせた。
 このプロジェクトX池田敏雄が登場するのは2002年4月に放送された「国産コンピューター ゼロからの大逆転 ~日本技術界 伝説のドラマ」である。そこには池田敏雄の輝ける人生が感動的に表現されていた。

  • (本文中、歴史的人物、社会的組織の敬称を略させて頂きました)
  • (謝辞:施設をご案内頂いた富士通沼津工場に謝意を表します)

(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)