集団指導体制と共同無責任組織の産物
さて、毎週日曜夜に放送しているNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(画面1)の話である。源頼朝は坂東の武者から絶大な支持を得た。なぜ諸将が推戴したかと言えば、清和源氏の宗家嫡流というカリスマを備えた「スゴイ人」だったからにほかならない。
源氏が平氏を都から追い落とすことができたのは、天候不順のため平氏の経済基盤である西国が不作だったから、という説がある。なるほど、ではあるのだが、源氏の軍勢を率いた将は労苦を厭わず、平氏の諸将は栄華の安穏に慣れ、しかも二世・三世の子弟という違いがあった。平氏の「働かないおじさん」たちが排除されたにすぎない。
その後の武家政権を見ると、鎌倉幕府は頼朝が没したあと、評定衆(有力御家人13人で構成)筆頭の北条得宗家がライバルを蹴落として実権を掌握した。室町の足利将軍家は4代義持のころから執事・管領が台頭し、箱根以東を差配した鎌倉府も関東管領上杉氏が牛耳った。徳川幕府は3代家光の後、老中・若年寄による官僚機構が政権を運営した。
そもそも幕府とは遠征先で将軍が設置する軍政府のことだから、将軍がいなければ体裁が保てない。そこで将軍には「何もしない」ことが求められた。上位に立つ人が肉体労働や雑用をするのは軽々しい恥ずべき行為、という儒教由来の考え方が背景にあった。実務は下位者がやる。
こうして制度上の意思決定者は実務から遠のけられ、意思決定から疎外されていく。実務を担当する下位の者が判断に必要な情報を整理し、上位者が合議して出した結論を、決定権者の名で下す。合議ゆえに責任の所在があいまいになる。しかしそれが波風を起こさず、団結して外圧に抗するための了解事項なので、越権でも詐称でもない。それを室町時代の『看聞御記』という書物は「中央の儀」と呼んだ。「儀」とは「やりかた」といった意味だろうか。
以下、武家政権の権力構造を現代に敷衍するのはいかがなものか……と思いつつの仮説だが、大企業の上位管理者は昇進・昇格するのに伴って「中央の儀」の罠に落ち込んでしまう。「あ、オレってエライかも」と思った瞬間、周りの者が寄ってたかって何もしないでよい状況を作り始める。
当人がエライと思わなくても、好むと好まざるとにかかわらず、そのような状況に置かれてしまう。なぜならそれが組織全体を安寧に保つための方程式になっているからだ。働かないおじさんは、集団指導体制と共同無責任を是とする組織の産物なのではなかろうか。
自動ドアに慣れているので、手動ドアの前に立ったまま「なぜ開かないのだろう」と首をひねる。それと同じように、中央の儀に慣れてしまうと、何もしない/させてもらえないことを疑問に思わない。集団指導体制と共同無責任組織が働かないおじさんを量産しているわけだ。
乱暴な話、既存の組織を木っ端微塵に
この国の経済成長は戦中・戦後世代が担い、団塊世代が受け継いだ。現在の担い手は戦後第3世代と第4世代だが、その中にもエライ人がいる。政治家や官僚は当然、古参の大企業なら石を投げれば当たる。そうした人たちは、最初は「仕事をしない」だったが、数年もすると「仕事のしかたがわからない」になってしまう。
行政手続きや企業の事務処理にコンピュータが適用されてかれこれ60年、デジタル化より前にデータ利活用が満足にできていない。IT清書機が温存されているのは、ITが苦手だからではない。中央の儀に気づかず、放置したままの組織風土を改革しなければ、DXやDBI(Digital Business Innovation)にたどり着けるかどうか。
それだけならまだしも、乱暴な話をすると、非凡で有望な企業は外資に買い占められ、残るのは茹で上がった凡人ばかり、ということにもなりかねない。そうなる前に肥大化した組織を木っ端微塵にして事業をシンプルに再編する。
併せて、エライ人、働かないおじさんたちを一掃し、中央の儀を徹底的に叩き潰す。そのとき、シリコンバレーの企業群を目指す必要はない。アジアにも先進の事例がある。実際、韓国のサムスン電子(Samsung、三星電子)グループは海外から人材を招聘して、管理者が実務に手を出すのは恥ずべきことという組織風土を改革した。DX/DBIに必要なのは、エライ人ではなく、スゴイ人ということになるのだろう。>