私の「南蛮のみち」〜マデイラ・アイランドへ行ってきた〜②

 そういえば、マヨルカ島の国際会議では、島の少し内陸に入ったところ のバレアレス諸島大学のツーリズム学部のお世話になっていた。近代的な とても立派な大学キャンパスで、ここではホテル型のフルサービスの昼食 が出た。学部の実習ということで、テーブルに料理を運ぶのは学生、これ を見守るのはこの学部の教授ということだった。

リスボンの「海洋発見記念碑」、先頭にエンリケ航海王子 テージョ川の橋の先にリオデジャネイロの巨大キリスト像を模した像

エンリケ航海王子の時代から
 地中海には常時、莫大な観光客がいるが、その後ろに大きな産業としての観光業がある。この産業に有為な人材を送り込むのがツーリズム学部である。その拠点の一つがマヨルカ島にあったわけだ。なにかエンリケ航海王子の時代から海に生きる人々の変わらぬ伝統がつながっているように感じられた。
 司馬さんの「みち」で、マヨルカ島ポルトガル本土、マデイラ島が一直線につながった。そしてそれは彼らのいう「発見」、我々の視点では南蛮文化の「伝来」にまっすぐ繋がる「歴史のみち」だった。
 リスボンには東方航路発見の痕跡がたくさんあった。エンリケ航海王子没後500年を記念して大西洋に注ぐテージョ川河口に建てられた巨大な「海洋発見記念碑」、観光客の必見スポットだ。その前の広場に大きな世界地図がモザイクで描かれ、ポルトガル勢力の到達年号が記されている。日本は1541年となっていた。種子島漂着の2年前、豊後への到着年だそうだ。このあと鉄砲が伝来し、やがてこれが戦国日本の物理的な統一につながってゆく。
 この広場の奥に、これまた巨大にして豪華なジェロニモ修道院がある。司馬さんにはこの修道院が相当に印象深かったようで、これを思い入れを込めて詳しく描いている。
 その一角にヴァスコ・ダ・ガマの柩があった。精緻かつ豪華な石の彫刻で、蓋の上に合掌姿勢で寝ているガマの像が彫り込まれていた。この豪華な修道院はガマの持ち帰った莫大な富で築かれたとのこと。司馬さんが感情込めて描いたジェロニモ修道院のなかで、実際に柩の上のヴァスコ・ダ・ガマの像を前にすると、ポルトガルの東方航路開拓という歴史がとてもリアルに感じられる。
 この東方発見の歴史にはまだ先があった。ここのテージョ川の河岸に出ると、対岸へむけて大きな吊り橋(4月25日橋)が見え、その先に、あのリオデジャネイロのコルコバートの丘で仰ぎ見た巨大なキリスト像と同様ものが高い塔の上に立っているのが見える(クリスト・レイ像)。大西洋を挟んだ2つの巨大キリスト像はこれを建立した人々の心の中で繋がっているようだ。リオデジャネイロも国際会議で訪れた忘れ得ぬ場所のひとつである。そう、オリンピック開催を控えたラテンアメリカ最大国家ブラジルはかつてポルトガルの植民地だった。
 ポルトガル本国の人口は目下1,000万人、しかしブラジルでは2億人弱の人口が公用語としてポルトガル語を使っている。帝国の遺産そのものであろう。

<span class="deco" style="font-weight:bold;">旅に行けば色々なものが見えてくる</span>
 国際会議で脈絡なくあちこち訪れていたが、今回の旅で、ひとつの大きな軸を持つことができた気がする。海洋への展開、それは歴史でもあり、なお現代のテーマでもある。
 ポルトガルでは世界遺産など観光地の訪問はまことに結構な旅だった。なかでもコインブラ大学の16世紀からの図書館は驚くべきものだ。電子コンテンツ時代への強烈なアンチテーゼを見せられた。
 一方、観光地の多くが観光客で溢れかえっているのには驚くとともに感心しなかった。フィレンツェなどでも見られたことだが、観光客とその相手をする人だけで街が充たされているというのはなんとも不自然である。街が生きていないのだ。観光立国を目指す日本の諸都市にはこうなってほしくないと思った。
 しかし、ポルトガルはこうした歴史地区で成り立っているわけではない。そのまわりでは高速道路が縦横に走り、近代建築が林立し、新幹線が走り、欧州一のデザインとも思われる巨大中央駅(オリエンテ駅)があり、空港、港湾、地下鉄などの近代インフラが整備され、大型ショッピングセンターがあり、ここ10年ほど経済の波に乗り遅れているとは言え、人口1,000万人の国としてかなりのポテンシャルがあるように見えた。
 つくづく、旅はしてみるものだと思う。秘境でなくとも地球上にはいろんなところがあり、いろんな人がいる。行けばいろいろ見えてくる。旅そのもので感じられることもたくさんある。今回の旅では5つの空港で合計8回乗り降りし、また鉄道駅も何カ所も利用した。この範囲だけでも世界中沢山の人が激しく移動しているのが分かる。
 リスボン、マデイラ間ではLCCEasyJet)を利用した。大手の国際線とは違った人々の移動の姿を知った。深夜のリスボン空港は大混雑だった。その中で、カートに山盛りにスーツケースを積んだアフリカ出身の家族が沢山いるのが目に留まった。出稼ぎの人々が故国に里帰りし、お土産いっぱいでリスボンに戻って来たのかも知れない。この地がアフリカに近いことが実感される。


国際会議に見るパラメーター
 空港出口でタクシー待ちの長蛇の列に並んだ。ビジネス・スーツ姿はほとんど見かけない。そこでこのアフリカからの家族の中にスーツケース満載のカートを押しながら当然のように割り込みをする人々がいる。普通の人は列の途中に入れさせまいとするが、これまた並んでいたアフリカからの家族が助け合うようにこれを入れさせる。こうしたところに、社会が内包する問題の一端を感じた。
 国際会議では、国籍とか民族、人種などが多様なパラメーターであることがよく分かる。カナダで学びキャリアを積んだスイス企業のエグゼクティブ、台湾出身のアメリカ人、法政大学から来たデンマーク人、などなど、ちっとも珍しいことではない。
 皆、もっと行けばいいのにと思う。ソフトウェア・エンジニアリングの話題はどこでも一緒で、日本での議論・研究は充分世界に通じる。各国ともソフトウェアの課題に直面していて、研究者は苦労して産学連携体制を築いて産業界のソフトウェア開発データを得、あるいはもっぱらオープンソース・プログラムのレポジトリを解析して、新しい発見や、新しい手法の実証を試みる。
 ファンクションポイントを計測し、モデリングの手法やモデリングに関する計測を試みる。定量データだけでなく、定性的な事象の計測も試みる。企業幹部は多様な組織やプロジェクトのマネジメント手法を考える。CSCWの手法をソフトウェア開発に適用する、そして多くは、限られたケーススタディで得た知見を何とか一般化しようと努力する、などなど。
 論文査読合戦は勝ったり負けたりだ。しっかりしていればBest Paper Awardだって得られることもある。継続的に発表していればプログラム委員やセッションリーダを依頼されることもある。知り合いというか友達もできるだろう。たまには会議の日本への誘致だって可能だ。
 いつでも諸般の事情はつきまとうが、これをはねのけて出て行き、井の中の蛙でない見聞を広め、歴史感、地理感を深め、また各国の研究者、企業人と交流してゆく価値は充分にあるだろう。