私の「南蛮のみち」〜マデイラ・アイランドへ行ってきた〜①

 機会があってここ10年ほど毎年のようにソフトウェア・エンジニアリングに関する国際会議に論文発表などで参加してきた。その開催場所はオリンピックにも似て、それぞれ誘致する研究グループなどによって脈絡無く世界各地を持ち回る。おかげで参加する者としては、短い滞在ながらも世界各地を訪れることになり、その中には思いがけない場所も含まれていて、狭義のソフトウェア・エンジニアリングを離れて、世界の実情への見識を大いに深めることができる。

マディラ・アイランドで、ホテルの居室から

ジブラルタルの西
 そんな中で、スペインでの会合が3回あり、その他に休暇をとってバルセロナやイタリアのジェノバを旅行したりして、なんとなく西欧の西の端に関心を持つようになった。
 スペインの最初はカディスである。ここはジブラルタルよりも西、つまり大西洋に面した港町、コロンブスが最後に補給した土地といわれ、現在は大型客船の寄港するリゾートだ。
 ここの会合で近くのヘレス・デラ・フロンテーラを見物する機会があった。シェリー酒やフラメンコ、馬術で著名で、地名には「国境」、つまりキリスト圏とイスラム圏の境目の意味がある。
 スペインの2回目はマヨルカ島パルマバルセロナ沖、バレアレス諸島の一角で、日本からの新婚旅行客も来るリゾート。3回目は首都マドリード。このとき近くの古都、観光地トレドを新幹線で日帰りする機会があった。バルセロナは仕事でたまったマイレージを利用しての休暇旅行で、イタリアのミラノから列車でジェノバを経由し地中海沿いに、フランスのニース、アビニオンなどを見物しながら訪れた。ジェノババルセロナマヨルカ島カディス、いずれもコロンブスゆかりの地だ。
 こんな点と線の見聞体験があったところで、今回、ポルトガルリスボンの南西1,000kmの大西洋上、マデイラ・アイランドで一つの会議があった。会合名はEuroMicro2015、欧州の研究コミュニティを中心とし、マイクロプロセッサ誕生直後から開催されてきた歴史ある会議だ。
 Digital System Design(DSD)と、Software Engineering and Advanced Application(SEAA)の2つの部門で構成し、これらを一体運営している。DSDは18回、SEAAは41回を数える。2つの部門で予稿集こそ分かれているが、基調講演やブレークタイム、会食などすべて共通にして、いわば、ハード・ソフト一体となって広義のマイクロプロセッサ・ソフトウェアの課題を追おうとしている。筆者にとっては、昔、マイクロプロセッサ登場から間もない頃、共著の論文が落選してしまった思い出の会議である。


青い空、碧い海、緑の島、爽やかな風
 会議はマデイラ島の中心地、フンシェルの著名な建築家(Oscar Niemeyer)設計のカジノつき大型リゾートホテルで開催された。宿泊も一緒である。自宅を出てから到着まで24時間を優に超す。あの「地の果て」と思われたカディスマヨルカ島より更に遠い。もちろん欧州各国の参加者にとっては各地からの直行便があり、LCCもあって便利なようだった。
 大西洋の真珠と言われるマデイラ島の風光は筆者にとっては驚くべきものだった。
 僅かな平地を除いて断崖のような地形に囲まれた急峻といってよい山型の島である。ここに島の縁に造成した長い滑走路の空港、高速道路、そして通信回線などのインフラが完備し、狭い平地部にフンシェルという石畳に覆われた歴史のある欧州型の街があって、その横に大型客船が複数寄港可能な港がある。街の後方の斜面を相当高いところまで景観を保護しながら家がびっしり覆っている。その多くは屋根の傾斜を揃え、皆橙色の瓦をふき、壁面が白に統一されている。段々畑のような農地もある。
 青い空、碧い海、緑の島、爽やかな風、TVや写真で見るリゾート風景そのものである。夕日も夜景もすばらしい。砂浜は無く、昼間ホテルのプールは日光浴を兼ねた欧州型の水着の人で一杯である。ホテルも街もトロピカルな豊かな花木で覆われ、樹木には驚くほどの高木が多い。街路の清掃や植栽の手入れは行き届いていて申し分ない。ホテルの庭に極楽鳥が囲んでいるところがあり、朝、この花を沢山摘んで、ホテル内のあちこちを飾っている。
 ホテルの居室はもとより、広いガラス張りのダイニングやいくつもあるカフェは絶景に面している。ホテル下の港には毎日白く美しい客船が出入りする。ドイツ以北の欧州、あるいは英国の気候を知っている者には、彼の地の人々の、時々はこうしたところで休みたい、という気持ちがよく分かる。この環境での国際会議、全くの国際社会で、日頃の東京生活からかけ離れた異次元空間に身を置いた感覚となる。
 折角なので帰路、ポルトガル本土の見物スポットを訪れた。ワインで著名で国名のもとになったポルト、大学とその図書館が有名なコインブラ、そして震災復興都市にして首都のリスボン、いずれも世界遺産がいっぱい。この間は沿線風景を味わいながら列車で移動、ジウジアーロ、デザインの新鋭高速列車(Alfa Pendular)にも乗れた。
 奇しくもこれで欧州の西端を訪ねる旅がほぼ完結する形になった。


司馬遼太郎街道をゆく』を読みながら
 旅に先立ってガイドブックを読む。
 「地球を歩く」は必携だが、それよりもこの旅には司馬遼太郎街道をゆく23、南蛮のみちII」がぴったりである。「街道をゆく」は、「マドリード周辺」、「ポルトガル・人と海」、の2部構成。「読んでから行く」か「行ってから読む」か、このうち前編は「行ってから読む」、後編は「読みながら行く」、そして「旅の終わりに、もう一度読み直す」となった。
 司馬さんは、「マドリード周辺」では遣欧少年使節やスペインの歴史にからめてスペイン人への評などを論じ、またトレドが印象に残ったのかその描写が続く。そしてアトーチャ駅からリスボン特急と呼ばれる2両連結の列車でポルトガルに向かう。このアトーチャ駅には行ったことがある。
 トレドへの新幹線の発着駅だ。
 昔の欧州風の駅の意匠を残した巨大な構内を、これまた大きな芭蕉などのトロピカルな植栽が美しく飾っていて、遠くの地への玄関口の雰囲気を醸し出していた。もっとも司馬さんが訪れたのは1983年頃だから今とはだいぶ違っていただろうが。
 そこからリスボンまで車窓のながめの退屈さを嘆きながら、スペインとの間にこれといった物理的な境のないポルトガルの立国の不思議を論じたりしている。途中、国境を越えるとがらりと変わる駅舎の建築様式について描いている。ポルトガルの駅舎はどれも同じ様式で、美しい青色(コバルト色)の絵タイルで飾られていたということだ。今回このような駅舎はリスボンからポルトへの列車旅で一つだけ見つけることができた。
 リスボン特急とは線が異なるが、まだ残っていた。このアズレージョと呼ばれる青い絵タイルで飾られた駅は、ポルト中央のサン・ベント駅でその極致を見ることができる。ここでは大きな駅のホールの壁面をアズレージョに描かれた多数の巨大壁画が覆い尽くしている。画材は戦さのような歴史局面や住民の生活の姿で、そのリアルな美しさは大迫力で、駅舎内の現代人にさながらタイムカプセルに入ったように迫ってくる。
 司馬さんは「ポルトガル」では、その歴史に触れ、スペインへの併合から独立した後、東からの圧力に耐えながらその立国の基盤をもとめて、海洋国家としての西への展開を整理している。歴史は1385年に即位した国王ジョアンI世が英国と同盟をむすび、英国から妃を迎えたところに始まる。この妃が極めて優秀な3人の息子を得て、その次男が地理に通じてエンリケ航海王子となった。
 エンリケ王子は力を蓄えるために当時海賊などの巣として造船や航海術にたけたマヨルカ島から有能な人材を引き抜き、体制を整えた後部下に西への探索を命じた。その最初の成果がマデイラ諸島の発見である。ここを5年かけて経営できるようにした。その後航海王子の遺志を継いだ人々によって、15年かけてヴァスコ・ダ・ガマの東方航路発見に至ったということである。

リスボン、「海洋発見記念碑」前の世界地図。日本への到達は1541年とある。後方に見えるのはジェロニモス修道院、 ここにヴァスコ・ダ・ガマの柩がある。