(続)絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(12)

日米外交逼迫のなかで

 移民排斥をめぐって日米関係が急迫する中、明治三十九年(1906)4月、サンフランシスコ大地震が発生した。日本赤十字社が救済義捐金を募集し、渋沢栄一は各企業に寄付を依頼、日本からの寄付金は25万ドルを超え、この額は全世界からの義捐金総額の過半となった。


東京、王子、飛鳥山の春(2015年4月)
 
 こうした事態にもかかわらずサンフランシスコ教育委員会は日本人学童の公立学校への入学禁止を発表した。10月、日本政府が米国政府に抗議、ルーズベルト大統領もこれに強い非難のメッセージを出す。翌明治四十年(1907)2月、日本政府が移民渡航を制限するという覚え書きを出し、いわゆる紳士協定となる。ルーズベルトがこの覚え書きをもとにカリフォルニア州議会を説得、学童差別を取りやめさせるという経緯になった。
 同年9月、米国大統領選挙出馬決定で当選確実といわれていたタフトが再び来日、渋沢栄一は、東京市長尾崎行雄、商業会議所会頭中野武営連名で、帝国ホテルで大歓迎会を開いた。
 西園寺公望首相以下全閣僚、元老たち、大山巌乃木希典東郷平八郎など陸海軍の将軍も夫人同伴で出席した。明治政府の必死が伝わって来る。
 渋沢栄一は挨拶に立ち、日米親善の意を、心を込めて表明した。
タフトから長い答辞があった。
 津本陽はその要旨を記述している。当時の厳しい国際情勢の中、日本を理解し、まもなくアメリカ大統領となる人物が日本に残した言葉は、その後の歴史を知る者にとって胸に詰まるところがある。
 『サンフランシスコの日本移民排斥問題は、かならず政府の手によって解決するので、日本はアメリカと戦争するなどとは、考えないでほしい。日本とアメリカが戦うのは,文明に対する犯罪であるから,かりにも口外しないようにしていただきたい。
 韓国では、千五百年間悪政がつづいていたので、日本はこれを改善する義務を持っている。現に、われわれの尊敬する伊藤公爵は、韓国でさまざま努力しておられる。われわれは日本の対韓政策を支持している。
 現代の世界では、自ら秩序ある政府を維持できない国の内政に、強国が善良な目的をもって干渉するのは強国の義務であるということが認められている。
アメリカはフィリピンの経営という大事業を抱えており、日本との戦争をする余裕はない。両国はいかなる理由があっても平和を維持しなければならない。私は今後長く両国の平和が維持されることを確信している』。

 中野武営(なかのたけなか、通称:ぶえい)、ここで登場する。サムライだ。浅学にして、渋沢史料館の企画展「商人の輿論をつくる! 渋沢栄一と東京商法会議所」に行くまで知らなかった。写真が展示され、図録に研究家石井裕晶氏による紹介文が掲載されている。Wikipediaも見てみた。
 高松藩の出身、嘉永元年(1848年)生まれだから渋沢栄一より8歳若い。藩の勘定奉行の子で文武両道、藩校講道館の秀才、官僚、弁護士、政治家、実業家となっている。大正七年、東京で没す。享年70、葬儀委員長は渋沢栄一。その活動を見て驚く。まさに武士としての気骨と商才をあわせ持った「士魂商才」の巨星だった。惜しむらくはあと一息長生きして活躍してほしかった。大正十年、東京商業会議所で中野武営の銅像の除幕式があり、渋沢栄一が祝辞を述べている。
 藩士として兵事を担当した後、高松県、香川県愛媛県、そして明治政府内務省の官僚。薩長派に反発して官職を辞し、立憲改進党結成に参加、愛媛県議、県議会議長を経て、帝国議会開設に伴い、高松市から衆議院議員に、以降明治三十六年まで6期当選。県議時代に香川県分県運動に奔走。中野武営の活動無くして今日の香川県は存在しなかった。つまり四国にはならなかったわけだ。追って明治四十二年、その後の実業界での活動を反映して東京市から再び衆議院議員に当選している。
 実業界では、関西鉄道(後のJR西日本JR東海)、東京馬車鉄道(都電の前身に相当)、南満州鉄道、日清生命、東洋製鉄(新日鉄住金の前身)、田園都市株式会社(東急電鉄東急不動産の始祖企業)などその経営の足跡が並ぶ。東京株式取引所理事長に、そして明治三十八年(1905)から12年間、70歳まで渋沢栄一のあとの第2代東京商業会議所会頭を勤めた。風雲急を告げる国際情勢のなかで、まさに渋沢栄一の盟友として、実業界の多事を担った。日露戦争後の講和に関して政府政策を支持するなど正道を進んだが、軍拡反対、増税反対など時の政権と激しく戦い、ときに政変と呼ばれるほどの政治状況を生み出している。
 石井裕晶氏の伝えるその業績は次のようなものだ。一つは商業会議所としての国策的プロジェクトへの貢献である。一貫して政府の軍拡政策に反対する一方で、日本大博覧会の開催推進、東京大博覧会、大正大博覧会の開催、パナマ万国博覧会への参加実現、明治神宮の造営の提唱と寄付募集。そして第一次大戦勃発後、基礎的研究の充実、重化学工業化の推進、海運の拡張、輸出金融や輸出検査制度の拡充など数々の政策提言を行い、渋沢栄一と二人三脚で、理化学研究所、東洋製鉄、日本染料製造株式会社(現在の住友化学)などの実現に結びつけている。もうひとつは、産業社会のなかで発生する様々な社会的問題への対応である。渋沢栄一と二人三脚で、「浅野セメント降灰問題」「日本郵船紛議」「東京商業学校辛酉(しんゆう)事件」「早稲田騒動」などを仲裁し解決に導いている。
 こうした活動は明治から大正期、成長する日本の経済社会のなかで商業会議所にある種の信頼感と大きな力を与えるようになった。今日の日本社会における経済団体への評価、そして理化学研究所への評価を知る者にとって、隔世の歴史である。
 大正七年(1918)になって東京市会議員、そして市会議長も勤めている。中野武営が70歳で病に倒れた時、渋沢栄一が各方面に授爵運動をしたが果たせなかった。政治の舞台で戦いすぎたようだが、このことはかえって中野武営の激烈な生き方への勲章にも思えてくる。
 サムライは一人渋沢栄一だけではなかった。中野武営、その真価は明治四十一年以降渋沢栄一と二人三脚で進めた文字通り命がけの対米国民外交に見ることが出来る。

 

神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ