再訪の欧州で
明治三十五年(1902)、62歳の渋沢栄一は半年に及んで欧米を歴訪した。その最後の1ヶ月はロンドンを拠点とした欧州巡行だった。それは幕末、徳川昭武に随行してパリを拠点に滞在してから実に39年ぶりの欧州である。この間渋沢栄一個人にとっても日本にとってもまさに隔世、その感慨はいかに、と思うところだが実際は大いに異なった。
青淵文庫の閲覧室(東京・飛鳥山)
ロンドン商業会議所は渋沢栄一のために臨時総会を開き大歓迎した。渋沢栄一のイギリス評はクールだった。津本陽が伝えるところでは、イギリスはひとことでいえば、古風、旧態であり人間は高尚だが、お高くとまっていて他を見くびっている。
イギリスとアメリカには先祖は同じだが現況には大きな差がある。
アメリカは突飛で前進のみを心がける性格があり、これに対してイギリスには自信があり、保守で、責任感があり、親切で篤実なところがある。イギリスは商業道徳を重んじる点でもっとも優れている。こうしたことからイギリスは依然商工業の先進国でその国富は計り知れない、近年アメリカの台頭はあるが実際にはイギリスの優位は崩れていない、という観察だった。
次いでドイツを訪れその隆盛に感銘を受ける。ドイツに米国に次ぐ力を見た。ハンブルグ港はイギリスのリパブール港をはるかに凌ぐ状況だった。ドイツの産業界は沈着に事業を進展し、諸事に研究がさかん、という印象を持った。渋沢栄一はここで面白い指摘をしている。イギリス商人は自国語を操って交渉できる相手とだけ取引きし、ドイツ商人は多国語を使い、他国に出向いて取引を行う、というものだ。
次いでフランス、ここでは中央銀行とクレジ・リオネー銀行を訪問している。この銀行では広大な組織の調査部が世界各国の商工業、政府の財政を詳しく調べていた。渋沢栄一が70歳のジェルマン頭取にフランスがイギリスのように日本の公債の取引を行わない理由を尋ねたところ、婉曲な答えの中に日本の窮乏への疑問が見て取れた。これはフランス政財界が日露開戦の迫る日本経済に危惧を抱いている証拠だった。
津本陽は渋沢栄一がこの欧米視察を終えて語った感想を字数を割いてじっくり伝えている。ここで拙い要約を試みる。
「徳川昭武に随行した訪欧時には、出発時には学問もない攘夷党だったが、上海までゆくとたちまち軟化し、パリ辺りへゆくと、これは一生懸命学ぶほかはないというふうに軟化した。
行く前には欧州では仁義道徳などはわきまえておるまいと思っていたが、人の守るべき主義が日本よりよほどゆき届いていた。
それから約40年、今回の旅では諸国で然るべき待遇を得た。しかし、旅行の日を重ねるにつれ、憤慨の念を増し、西洋人の顔を見るのも嫌になるほど、悲憤の思いで帰って来た。
その悲憤のもとは日本の姿である。日本では政治がすべての基本で、社会を動かす原動力になっている。その政治が商工業に利便を与えるのは政治家にとって都合のいいときだけである。
日本の商人は欧米に比べ、儲けさえすればいいという商業道徳の低さによって、物事をなしとげるについて一致せず、日本人の智能、気力が欧米人に比べて劣ることがないのに、産業全体の進歩が見られない。」
本来であれば、今回の旅で、自らの旅先での待遇の変化や、過去40年の日本、あるいはその産業界の進歩を思い、なにがしかの感慨をもって帰国してもおかしくない状況に思えるのだが、クールに日本の現状を把握し、その将来を見据える渋沢栄一には全く異なる「憤慨の念」「悲憤の思い」を残したのだった。
このあと、津本陽の外交関係の記述は淡々とすすむ。日露戦争のあと渋沢栄一は国家への貢献を賞せられ勲二等旭日重光章を授与された。戦争の大勝を祝い、日英親善のために来朝した英国親王コンノート殿下の大歓迎会を主催し、救世軍ブース大将の来朝では、飛鳥山の自宅に招待して歓待した。また日露の平和復活後、日露貿易会社を創立、満州興業会社創立に参画した。
渋沢栄一は古稀を迎えて多くの企業との関係を断った。それらは、取締役会長、取締役、監査役、相談役、顧問、清算人、会社創立委員長、などなど夥しいものだった。続けるのは、企業8件、社会事業・教育関係17件とごく限られた役職のみとした。
こうした中で渋沢栄一は日米関係に常に注目していた。それは日露戦争後両国間がおだやかならない動きになってきたからだ。
日露終戦をめぐる国際情勢を理解しない日本国民が講和条約の内容に不満で、これが終戦を仲介したルーズベルト大統領の米国へ向けられ、反米感情が高まる事態となった。東京では反米暴動が引き起こされ数日間続いた。
渋沢栄一は暴動のさなか、大蔵大臣邸でひらかれた米国人ハリマン一行の招宴に列席している。また、明治三十八年小村寿太郎が講和会議の全権大使として日本を出発したあと来日した米国国防長官ウィリアム・タフトの公式の大歓迎宴に出席し歓迎の挨拶を述べている。タフトは占領地フィリピン視察のため、大統領令嬢や上下両院議員を伴い立ち寄ったものである。渋沢栄一の挨拶はペリー来航以来の米国の手厚い応援に謝意を表すこころのこもったものだった。このときの饗宴は余興の英訳も用意され、大がかりなこころからのものだった。
一方、米国では明治十五年頃から大挙して渡米するようになっていた日本移民が労働者市場を圧迫し、各地で日本移民排斥運動が展開される状況だった。日露戦争の勝利で日本人の態度にもうぬぼれが出て高姿勢になり、嫌われた側面もあった。明治三十八年にはサンフランシスコ教育委員会が日本人の学童と白人子弟の共学の禁止を発表し、ルーズベルト大統領がこの決定を非難するという事態になっている。これが外交問題になってきた。折しも日本では明治三十九年、経済界が深刻な不況に陥った。
国際情勢をめぐる暗雲の中に日本が包まれていく、まさに風雲急である。