岩島「親子プログラミング教室」で考えたこと 実社会に等式で結ぶ「正解」はないんだよね

 4月2日午後2時から、群馬県東吾妻町岩島の東吾妻町地域振興センターで、「親子プログラミング教室」が開かれた。来年4月から小学校で「プログラミング教育」が必修になるとあって、父兄や教員も関心を寄せている。講師・高橋正視氏が作った「数消しゲーム」は東京・清瀬第3小学校のサタデースクールで定評があって、子どもたちの感想が「面白かった」「楽しかった」なのは当然なのだが、素直に「やってよかったね」と言えないのはなぜなのか。

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上毛新聞4月3日付「時の話題」

上毛新聞「時の話題」に記事が載った

 4月3日、上毛新聞の朝刊「時の話題」コーナーに次の記事が載った。

 ▷初心者向けのプログラミング教室が2日、東吾妻町の地域振興センター(旧岩島中)で開かれた。子どもから大人まで十数人が基礎を学んだ。

 ▷画面上の数字を順番い消すゲーム作りに挑戦。ルールや条件を変えながら試行錯誤した。岩島小2年のK君が「いろいろなやり方があって楽しかった」と笑顔を見せた。

 ▷地域住民でつくる「暮らしの学び舎」(名倉陽子代表)が初めて開催した。都内で小学生向けにプログラミングを指導するNPO「みんなで教材をつくろう」の高橋正視さんが講師を務めた。

 厳密にいうと、参加したのはオブザーバーを含め30人ほど、この中には高橋氏がサタデースクールの講師を務める東京・清瀬市から駆けつけた児童3人、サポーター、ICTイノベーション・ミッショナリー協会(ICTIMA)からの応援団もいた。サポーターとして清瀬市から参加した柿添信作氏は、目が不自由な高橋氏に代わって準備作業(パソコンのセットアップやソフトのインストール)に参加するとともに、パソコンの操作を教えて回っていた。

 授業は前半の50分が「数消しゲーム」、後半の50分が「数当てゲーム」だった。「数消しゲーム」は画面に表示される数字カードを順番にクリックして消していくのだが、カードの数字を表示したりしなかったり、音を出したり消したりなど設定を変えることができる。  「数当てゲーム」は、伏せてあるカードを選ぶと数字が現れる。それが「7」なら、身近な数字で「7」は何かを考える。1回クリックすると「M」が表示される。このヒントで「Monday」に気づけば、あとの6枚の謎は解けるという具合だ。

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参加したのは6歳から14歳(大人は69歳)

 「プログラム次第でコンピュータの動きが変わる。それを体験してもらうのが数消しゲーム、ヒントからロジックを引き出すのが数当てゲームのねらいです。最後にソースコードを見てもらって、タイトルや数字の色、カードの枚数を変えたりできることを知ってもらいました」と高橋氏は話す。

 いずれも同氏が東京・清瀬第3小学校のサタデースクール(市民参加型による同校学童有志の課外学習)のために作成した教材だ。同小では、サタデースクールに参加していた教職員が実際の授業に組み込んだり、市の教育委員会が見学にくるなど来年4月からの必修化に備えている。

 低学年向けに唱歌「チューリップ」の歌詞(さいたさいたチューリップの花が……)を使ったカード消しゲーム、高学年向けにネット接続で数式を作る「MathPub」(高松市のDynaxTが提供)もあるのだが、今回は参加児童が6歳から14歳(参加者全体の最年少は2歳、最年長は72歳)と年齢差が大きかったので、高橋氏は選定に苦慮したようだ。

 数当てゲームでは、「間違ったとき数字を隠す」という設定を選んだために何度やっても「失敗=やり直し」のループから抜けられなくなったり、「小さくなって逃げ回る」を選んだばっかりに最後に残った数字カードがつかまらず、なかなかゲームを終われないこともあった。そうしているうちに、「最初に戻って設定を変えればいいんだ」ということが理解できたようだった。

 「数当てゲーム」で用意されていたのは7曜や12か月を英語で答える(スペルのアルファベットを順番に消していく)バージョンだ。これを11歳、小6になった男の子が全問正解したのは意外だった。また今回は群馬県ということで、高橋氏は「44」という数字を用意していた。7は曜日、12は月というそれまでの経験値から、さすがに地元、子どもたちから「上毛かるた」の声が上がる。

 清瀬第3小で低学年の児童を対象に「チューリップ」の歌詞消しゲームをやったとき、子どもたちはばらばらに配置されたひらがなのカードがフレーズ単位で色分けされていることを理解した。その瞬間、「さいたさいた……」を読み取ると一斉に歌い出したことがある。そのときほど「分かった!」のアクションがなかったのは、年齢・学年がばらばらだったからだろう。

成功を手放しで喜べない理由(わけ)

 授業最後の「振り返り」では、「楽しかった」「思ったほど難しくなかった」「もっとやりたい」「次はロボットがいい」等々、前向きな感想が多かった。運営の主体が育児真っ最中の若いママさんたちなので、実現するかどうかは分からないが、「月1ペースで(講座を)開いていきたい」という声も聞こえた。

 企画・運営に当たった「暮らしの学び舎」は育児真っ只中の若いママさんが中心で、「何から何まで初めて」(代表の名倉陽子さん)と緊張した面持ちだった。町の支援もないなかで初回で近隣から20数人(うち親子連れは3組)、オブザーバーや東京からの応援団を合わせて約30人というのは、「閉校になる岩島中の校舎を何かに活用できないか」と鳩首談義をした4年前と比べれば様変わりだ。

 実際、後日談では「新聞記事を読んだ近隣の方から、一緒にやりたい、という申し出があった」という。少子・高齢化が進んでいるとはいえ、仕事でパソコンやインターネットが欠かせない時代だ。中之条、原町、草津など近隣に範囲を広げれば、岩島の地域振興センターが文字通り「センター」になるかもしれない。

 参加者はパソコンでゲームを楽しみつつ、設定を変えるとゲームのストーリーが変わること、表示(色、数字・文字、カードの枚数)や動きはプログラム次第ということを知った。プログラミングを学んだとは言い難いが、「ソースコード」というものを見ただけで意味がある。「大成功だった」といっていいだろう。

 ただ筆者は、今回の"成功"を素直に喜ぶことができなかった。いや、Scratchに代表されるブロック・プログラミングでmicro:bitRaspberry Piなどシングルボード・コンピュータ、自走式のロボッロやドローンを動かしてみること、それによって子どもがコンピュータやプログラミングに興味を持つことを否定しているのではない。「プログラミング=パソコン(コンピュータ)」の等式でいいのか、だ。

プログラミング的思考とは何か

 文部科学省が先に改定した「小学校プログラミング教育の手引(第二版)」では、来年4月から始まる「小学校からのプログラミング教育」について、次のようなねらいを示している。

(1)身近な生活でコンピュータが活用されていることや問題の解決には必要な手順があることに気付くこと。

(2)自分が意図する一連の活動を実現るために、どのような動きの組合せが必要であり、一つ一つの動きに対応した記号を、どのように組み合わせたらいいのか、記号の組合せをどのように改善していけば、より意図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力。

 そのうえでわざわざ「プログラミング教育を通じて、児童がおのずとプログラミング言語を覚えたり、プログラミングの技能を習得したりすることは考えられるが、それ自体を、ねらいとはしない」と記している。

 (1)はカーナビやスマートフォン、炊飯器や冷蔵庫など多くのモノにコンピュータとプログラムが組み込まれていることを学ぶ、あるいは目的を達成するためには準備と手順が必要なことを学ぶ、(2)は算数や理科、科学、家庭科といった学習全般のなかで「プログラミング的思考を学ぶ」こととされている。つまり「プログラミング=パソコン(コンピュータ)」ではないわけだ。

 筆者の周辺にいる人たちは少なからずIT関係者なので、「そのようなことは分かっている」と言うに違いない。全員がプロのプログラマーになるわけではないし、現在主流のプログラミング言語が10年後20年後に主流であるとは限らない。さらにいえば、10年後20年後には目的に応じて、AIが最適なプログラムを自動的に作ってくれるかもしれない。単純な繰り返し業務にはRPA(Robotic Process Automation)が適用されているかもしれない。だから小学校で全員にプログラミング言語教育、コーディング技術の教育をするのはあまり意味がない。

 ではなぜ「小学校からのプログラミング教育」なのか、というと、10年後20年後の経済・社会を動かしているシステムが正しいプログラムで構成されているかを確かめる能力が必要だからだ。窓口に立つ銀行員や行政職員の多くが金融業務や行政手続きの仕組みを知らず、ただシステムのキーオペレータになっている、という笑うに笑えない話がある。ITがもっと進化する近未来に、それでは困るのだ。

  もう少し突っ込むと、プログラミング的思考とは、「モノゴトを観察して経過(プロセス)を整理し、原因や要素を抽出してルールを見つける」ということになる。そこで重要なのは、自分の理解を他者に正しく伝えることだ。ルールとプロセスを見つけても、自分以外の人に分かってもらえないとロジックにならない。ということは、パソコンを使わないプログラミング講座もアリということだ。

保護者や教職員に分かってほしいこと

  繰り返しになるのだが、小学校からのプログラミング教育は子どもたち全員のプロのプログラマーにすることが目的ではない。しかしこれまでの日本の教育は、英語であれ数学であれ、全員を博士にするかのように詰め込みと暗記を強いてきたために、多くの子どもが嫌いになってしまう。

 プログラミング教育も同様で、不慣れな教職員は応用が利かないために自分が理解している範囲のことを教えようとする。高橋氏がいつも言っているのは、「私たちは子供たちに自分が知っていることを教えなくていい。子どもたちが学ぼうとするとき、手助けをすればいい」ということだ。

 コンピュータ・プログラムにおいて「2」という答えを導き出す方程式は「1+1」とは限らない。なるほど「2」を導き出す最も簡素な数式には違いないが、「3-1」でもいいし「5+3-6」でもいい。プロセスは多様で、等式で結ばれる正解はなく、様ざまな可能性を考慮することがプログラミング的思考なのだ。

  それを別の局面に当てはめると、言葉と映像の関係に喩えることができるだろう。テレビのドラマでもいいし映画でもいいのだが、その映像が出来上がるには台本があり、稽古があり、現場でのロケがあり、編集がある。音声や擬音の処理もあればシーンの雰囲気を醸し出すBGMも必要になる。その一つ一つはすべて「文字」で表現されている。

 アイデアやイメージを「文字」で他者に伝え、それを受けた他者がそれを具体化したのが映像や楽曲だ。楽譜や台本が同じでも、演出家によって、演者によって、カメラワークによって、出来上がった映像は異なってくる。つまり方程式で生み出される画一的なものではない。

  筆者はたまたま、見聞きしたことを文字で表現して伝える仕事に就いている。そのせいでなおさらに感じるのだが、小学生のプログラミング教育で重点を置いてほしいのは、表現する力だ。「あれ」「これ」の代名詞を多用したり、なんでもかんでも「かわいい」「やばい」ではモノゴトは伝わらない。

 人が一息で黙読できるのは最大150文字(実際は目安に過ぎないが、それで新聞記事の1段落は15行以内に収まっている)、その中に読点は2つか3つ、読点から読点までの間に句点を2つか3つ。段落は息継ぎの場所ーーという人間工学的な知識、技法を知っていれば、文章を書くのも楽になる。

1000円で何を食べるかを考える

  授業を終えて、高橋氏と筆者は清瀬市から遠征してきた親子4人、地元の有志と夕食を取ることになった。このとき高橋氏が「オジさんが出してあげるから、1人1000円ずつ、何でも好きなのを頼んでいいよ」と言ったので、3人の子どもたちは大喜びだ。

 ラーメン、蕎麦、唐揚げ、白飯、野菜サラダといった単品、セットの定食、アイスクリームのデザードがメニューに載っていたとして(というのは特定の店名を出すのをはばかるためだが)、社会人(大人)の私たちは空腹の状況と直近の食事と比較して、味、食感、値段、その店ならではのユニークさなどを組み合わせてメニューを選ぶ。

 子どもたちは、まず食後のデザート(アイスクリーム)を確保する。1000円からデザートの料金を差し引きした残りで食べられるメニューを探し、例えばお姉ちゃんは白飯(普通盛り)と唐揚げ、わかめスープを頼む。妹はラーメンと唐揚げ、末の弟はお蕎麦と野菜サラダ。それをどうするのか見ていると、唐揚げ2人前、野菜サラダ1人前を3人で分け、残ったお金はお小遣いにするという。

 なんと素晴らしいプログラミングだろう。3人が各様に自分が食べたいものを注文し、出てきた分量を見てシェアすることで唐揚げと野菜サラダ、そして最初に取っておいたアイスクリームを頼み、さらにいくばくかのお小遣いまで手に入れることができたのだ。大人たちはそのようなことを考えない。

 「次の授業はレストランでやりましょうか」

 と筆者が言い、

 「あ、それ、面白そうですね」

 と高橋氏。

 東吾妻町地域振興センターの前を走る吾妻街道(国道145号線)、そこを往来する車を観察して何かを発見するのもプログラミングだし、町長にインタビューして新聞記事風のレポートにまとめるのもプログラミングだ。大人が持っている知識を子どもに押し付けても、そんなものは付け焼き刃だ。パソコンやスマホがあれば、子どもたちはもっとすごい知識をネットで入手する。そのように考えれば、市民参加型のプログラミング講座は気楽にやったほうがいい。

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親子プログラミング教室が行われた東吾妻町地域振興センター(旧・岩島中学校校舎)