2つの技術史展示館を訪ねて(4)

 富士通沼津工場に設けられた「池田記念室」はこの池田敏雄を記念する施設で、遺品やゆかりの写真、そしてコンピュータの実機等を展示し、訪れる人に氏の業績を伝えている。
 有名なリレー計算機の動態展示があった。猛烈な技術革新の中で大変な苦労をして、このごく初期のコンピュータの動く状態を維持している。いにしえの航空機を訪問者がある都度飛ばしているようなものである。これがコンピュータか、と思う。ここから今日のスマートフォンや、サーバー類、あるいはスーパー・コンピュータ「京」までの距離のなんと遠いことだろう。しかし、それが自分の生きてきた時代の中で起きてきたことと考えると、とても不思議な感覚になる。時代の距離感とでもいうものを呼び覚ましてくれる展示だ。
 池田敏雄の自筆ノートのあまりの精緻さに驚く。これを見れば、今更だが、氏は普通の人間ではなく特別な人だった、ということに納得がいく。

 この記念室には特に訪れる目的があった。それは筆者を含めて多くの人間が情熱を注いだデータ通信用標準コンピュータDIPS (Dendenkosha Information Processing System)と池田敏雄を結びつけるエビデンスの確認である。
 それは、氏の昏倒した日を含む予定表の黒板という形であった。そこには、DIPS関連の予定が鮮明に記述されていた。DIPS計画、その中に確かに池田敏雄という人物が存在していた。ここでは撮影が許諾され、そのエビデンスを自分のスマホに収めた。

 DIPS計画。

 今日、電気情報通信の分野で活動する人でこのコンピュータ開発計画とその成果を知る人は、極めて限られている。かつて、電電公社、そしてNTTを駆動軸として、壮大な標準コンピュータ開発・普及計画があった。
 ここでは省略するが、それはJISコード、つまり国際標準ISOのコードで動く文字通りの標準コンピュータだった。ピーク時数万の人々が参加し、その成果は国民生活の隅々にまで及んだ。(IBMとその互換機はIBMによって定義されたEBICDIC (Extended Binary Coded Decimal Interchange Code:エビスディックと発音)と名付けられた固有コードで動いていた。)
 池田敏雄は、世界の市場に挑んだIBM互換機と日本の国民生活を支えた日の丸標準コンピュータDIPSの双方に大きな足跡を残していた。

NTT技術史料館(武蔵野)

 池田記念室を出て、ちょっとした感慨にふけっているところで、もう一つ意外な施設に案内された。それは「富士通DNA館」。その存在自体は公表されているが、非公開の社内研修用展示施設である。
 地味な扉を入って驚いた。ここには昔何回か来たことがある。そこはかつて広大なコンピュータ組み立てラインがあったフロアそのものだ。1970年代、ここに組み立て中の230シリーズ、Mシリーズコンピュータが見渡す限りずらりと並んでいた。天井から納入予定先企業の名札が吊り下げられていた。アムダール機も、シーメンスなどの互換機も、そしてDIPSも並んでいたのを覚えている。
 (230シリーズはIBM互換機以前の富士通固有機、MシリーズはIBM互換機、アムダール機も一部はここで製造されていた。さらにシーメンスなど世界のいくつかのメジャーブランドによるIBM互換機がこの工場で生産されていた。)

 今ここでは、富士通の過去、現在の全セクションの歴史を示す資料が、各セクション毎に細かく区画されて展示されている。歴代の名機とか、情報処理技術遺産とかも。もちろんDIPSの実機もあった。ハードウェア関連だけでなく、サービスやその他の企業活動も含まれる。物理的なものだけでなく、文書資料も多数置かれている。
 ここは、富士通グループに新しく加わる人、特に若い人々に、その名の通り富士通の企業風土、遺伝子・DNAを継承して貰うのを助けるための施設ということである。OBを含む多くの社員の献身的努力によって手作りで作られ維持されているそうだ。
 各セクションの説明を聞いていて、その広汎な業績に圧倒される。富士通はこれまで何をやって来たのだろう。ようするに、今日に必要な技術開発全部をハードウェアであろうとソフトウェアであろうとサービスであろうと、何から何まで労苦を厭わず全部自分達で創って、そして世界の高みを目指して来たということだ。
 録音で池田敏雄の肉声を聴けた。決して立ち止まらないというショッキングな内容である。競馬システムを無限責任で受注した話の展示があった。これはその後の業界の悪弊の源になったものに違いない。業界の悪弊ではあっても、発注側には天国を実現した。

 そこにはかつて産業界にあった猛烈な垂直統合そのもの世界があった。今はどうだろう。その垂直統合で培った力が、ビッグバンのように日本中、そして一部は海を越えて世界に広がり、新しい水平分業、そしてエコシステムと言われる精緻な産業構造に発展した。
激動の世界の中で表層的には苦境に陥る場面があるけれど、そのポテンシャルには、シリコンバレーやアジア新興国の決して及ばない、計り知れない凄みが感じ取れた。

沼津から戻って数日後、東京、大岡山へ、池田敏雄の愛した「とんかつ」を食べに伝説の「あたりや」を訪ねた。このお店は池田敏雄の出身校、東京工大のキャンパスの横で、氏の若かりし頃、池田研究室の様相を呈していた。プロジェクトXの中でたっぷり紹介され、店内にプロジェクトX放送時の写真が掲げられている。NHK国井雅比古と並んで膳場貴子の初々しい姿が見える。その写真の中に、「あたりや」ののれんを背に胸を張っている青年のものがあるが、それは目の前でカツを揚げているおじさん、店主その人だった。
 池田敏雄はもとより、プロジェクトXの放送そのものも歴史になっていた。

 

  • 本文中、歴史的人物、社会的組織の敬称を略させて頂きました
  • 謝辞:施設をご案内頂いた富士通沼津工場に謝意を表します

 

(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)