2つの技術史展示館を訪ねて(1)

富士通沼津工場

  ここ50年の視野をもった日本の電気情報通信の歴史に関する著述をまとめるにあたって、そろそろ筆を置こうとする直前に2つの大規模な技術史展示館を見学させていただいた。

 見学し終わって、深いため息と共に、ちょっと高揚した気分になった。
 それは、これまで、容易には俯瞰出来ないと考えていたこの半世紀の日本の波乱の産業史の一端を、なんとか自分なりつかめたような感情が湧いてきたからだ。それぞれの施設で工夫された心に迫る展示が、自分がここ10年来取り組んできた「歴史もの」の執筆に一区切りつけられそうだというささやかな自信につながった[1]。
見学させて頂いた施設は富士通沼津工場と武蔵野のNTT技術史料館である。

[1]神谷芳樹:コンピュータを「電気・ガス・水道」のように身近にしたイノベーション、~コンドラチェフの次の大波に乗れ~、サイバー出版、2016年7月

富士通沼津工場
 

 富士通沼津工場は、あらかじめ見学を申し込み単身訪れた。この重要な産業施設に新幹線の最寄り駅はない。三島から東海道線に乗り継ぎ、沼津駅から路線バスで少し山を登るような感じで30分程度で到着する。それは緑に覆われた穏やかな小山に抱かれた、横長に引き締まった姿を見せる、文字通り白亜の殿堂と呼ぶにふさわしい堂々の建築群だった。
 門衛室で名前を告げると、直接本館正面玄関へ、と言われた。記帳も、入館証の受領もない。玄関前広場に横長の大きな噴水が並ぶ立派な本館で担当の方の出迎えを受け、以降、駿河湾を望む素晴らしい眺望の応接に通され、お茶が出て、案内の方と一対一のVIP待遇になった。

 いま、なぜ富士通沼津工場なのか。富士通は昔も今も我が国最強のコンピュータ・メーカ、そして主要な総合ITベンダーであり、現在、世界最速のスーパー・コンピュータ「京」を開発・製造しているほか、沢山の社会的に重要な情報システムを提供している。沼津工場はその富士通の戦略工場であるが、かつてそれが建設され、拡張を続けた一時代、コンピュータ産業の領域で今以上に燦然と輝く時代があった。

 「かつて国家間で熾烈なメインフレーム開発競争があった」、これはこの領域の歴史を語る文書の出だしの句として極めてまっとうな表現なのだが、今日、多くの人々にとって理解出来ないことばになっているのも事実だ。筆者はちょっと前に出身大学の研究室でミニ講演を依頼され、自己紹介を兼ねて若干の昔話をした。そのあとの懇親会で学生から「『メインフレーム』、それがイメージ湧かないんですよねー」、と言われてしまった。
 この句を違和感なく受け入れられるのは70歳以上、少なくとも60台以降と推定される。筆者はいわゆる団塊理工男子、つまり68歳だ。ストレートに現代の若者、いや若者でなくとも現代社会の多くの担い手とコミュニケーションするのは容易でない。
 そう、昔のコンピュータは集積回路の集積度が低く、複数の大きな基板を組み合わせて構成され、これらが冷却ファンのついた鉄枠(フレーム)の箱の中に収容されていた。これを通称「メインフレーム」と呼んだ。主記憶装置1メガバイトが1億円、いやそれ以上の時代だった。
 そのメインフレーム時代、このコンピュータ開発の主導権を巡って、単なる企業間競争を超えて、国家権力を巻き込んでの激しい競争が展開された。
 その重要なプレーヤがコンピュータ・メーカとしての富士通であり、その戦略工場が沼津工場だった。この国家間競争、当初日本は遙か後方からのキャッチアップだったのだが、官民挙げての不断・不屈の努力により、遂には我が国のコンピュータの貿易収支を輸出超過に持ってゆくのに成功した。
 その富士通沼津工場で、今、何が見れるのだろう。そこには激烈な競争時代の痕跡、エビデンスが残されているはずだ、というのが今回の訪問の背景である。 

  • (本文中、歴史的人物、社会的組織の敬称を略させて頂きました)
  • (謝辞:施設をご案内頂いた富士通沼津工場に謝意を表します
 
神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ