箱根、芦ノ湖畔で訪ねた2つの聖地


アラン・シャンド顕彰之碑と子息の墓

 国際的に人気の観光地、避暑地としても評価の高い箱根、そこに「凄いもの」がある。もちろん点在するあまたの美術館・博物館には「宝もの」がいっぱいだが、そのほかに、「宝」というよりも歴史のエビデンス、「聖地」と表現したほうがぴったりの場所がある。
 夏休み、ちょっと暑さを避けて滞在した箱根で、こうした聖地を2つ訪ねた。いずれも楽しげな人々で大賑わいの、箱根町芦ノ湖畔、海賊船桟橋からすぐのところに、喧噪を避けるようにひっそりとたたずんでいる。


パール・下中記念館

 まずは船着き場から歩いて数分の萬福寺。ここに明治日本の近代化にその根源のところで多大の貢献をした英国人アラン・シャンドの顕彰碑がある。
 アラン・シャンド、この名前を以前から知っていたわけではない。ちょっと前に東京駅、八重洲口の北、常盤橋のたもとで渋沢栄一の堂々たる銅像を仰ぎ見たのをきっかけとして、その生涯を追ってみた。このドラマの中に、近代国家日本の誕生に不可欠な歴史上の人物として英人、アラン・シャンドが登場する。
 渋沢栄一は、幕末、数奇な経緯の後、将軍徳川慶喜に仕え、慶応三年その命により、将軍の弟、徳川昭武随行して、パリ万国博覧会に渡欧、パリを拠点に1年9ヶ月滞在し、パリだけでなく欧州各国を巡遊、近代国家の運営に必要なありとあらゆる知識を吸収して持ち帰った。そして、追って明治政府に請われて近代国家としての日本の骨格を造った。
 しかし、さすがの渋沢栄一でも、あるいは旧来の商人はもとより、志士あがりのにわか官僚、そして旧幕閣でも、企業や銀行の会計に必須の簿記は無理だった。
 そこで明治六年、当時横浜東洋銀行で働いていたアラン・シャンドに白羽の矢が立てられ、これを明治政府(大蔵省)が雇用して、渋沢栄一はじめ近代日本立ち上がり時の日本人関係者のすべてがシャンドから簿記を教わることになった。
 シャンドは日本人の近代国家建設への意気に感じ、精力的に人材育成、そして会計の重要性、こころを日本人に植え付けた。
 そのシャンドの顕彰碑が、なぜ今、ここ箱根にあるんだろう。それは、いつ、誰の手によって建てられたのだろう。それはどんなところに、どんな形で建っているのだろう。
 萬福寺箱根駅伝ミュージアムの交差点から箱根新道のほうへ抜ける道路のちょっと横、竹林を抱いた鬱蒼とした高木に囲まれた落ち着いた場所に小さいながら風情のある山門を構え、白い瓦塀に囲まれている。入り口左に箱根学校発祥の地、右にアラン・シャンド氏 縁の地、という小さな案内碑があり、山門をくぐる前に、ここが古刹であることを超えて由緒ある地だと感じさせる。
 山門を入るとすぐ正面が母屋で、来訪者は自然に手前右のちょっとした石段に導かれる。上がったところに住職の居所と思われる家があり、丁度ご住職が出ておられた。来意を伝えると、顕彰碑はそのすぐ裏手ということだった。高木に囲まれた境内をちょっと進むと墓地を見下ろす場所に出て、その下に立派な顕彰碑があった。
 日本の石碑ではあまり見かけない横置きの巨石に、平面を磨いて、アラン・シャンド顕彰之碑、と大書、その上に、わが国に於ける複式簿記・銀行簿記の教師、下に、― 天下ノ事會計ヨリ重キハナシ ―  銀行簿記精法序ヨリ、の文字が刻まれている。裏面に氏の功績と顕彰碑建立の由来がびっしり刻まれている。
 この巨碑の横に、赤みがかったきれいな石の墓石がある。In Loving Remembrance of Montague Shand eldest son of Alexander Allan and Emmellne Christmas Shand, born 1871, died 8 Aug 1873. これは氏が日本の会計を指導する中、近代日本の教科書とでも言うべき「銀行簿記精法」を執筆・脱稿し、箱根で静養中に病気で亡くした3歳の長男の墓である。
 碑文を読んだり写真を撮っていたら、先ほどのご住職が、顕彰碑建立時の新聞記事のコピーと記帳簿を持って歩いて来られた。はからずもシャンド顕彰碑の横で記帳することになった。ご住職には来訪を喜んでいただけた。
 この顕彰碑は日本の関係者、そして萬福寺の支援によって2008年に建立された。ご子息の墓は明治時代に建てられたものが、昭和五年、直下型の北伊豆地震の際に山津波で寺ごと埋没したままになっていたものを80年の時を経て同じ碑文で再建されたものである。顕彰碑は真鶴産の本小松石、子息の墓はバラ輝石だそうだ。
 渋沢栄一にしても、アラン・シャンドにしても、その功績はもっぱら無形で、自分にとっては文書で知るだけの歴史だ。しかし、こうして、現代でも氏の功績を知り、感謝の気持ちを忘れない人々が沢山いて、いわば歴史のエビデンスを目に見える形に刻んでくれているという事実が、こうした歴史にとてもクリアな現実感をもたらしてくれる。
 そして、碑文にあったこの言葉、「天下ノ事會計ヨリ重キハナシ」は、まったくその通りだ。今日会計を疎かにして傾く企業が新聞紙上をにぎわし、また一企業の不祥事などではなく、経済社会全体を歪ませていることもある。
 萬福寺、箱根の賑やかな観光地のすぐ脇にひっそりたたずむ聖地に立って、明治日本の歴史のリアリティを感じるとともに、英国に眠るアラン・シャンドに恥ずかしくない、胸張れる日本社会であってほしいと思った。

 箱根、芦ノ湖畔のもう一つの聖地は、駅伝ミュージアムの交差点から国道1号を歩いて10分程度京都側に行ったところの右手にある。それはパール・下中記念館、英語でPal-Shimonaka Memorial Hallという。
 パールとはあの東京裁判で日本無罪の少数意見の判決書を主張したパール判事、インドのラダビノード・パール博士、下中とはこのパール博士と懇意になった平凡社創立者にして出版界だけでなく世界連邦など平和運動に貢献した下中彌三郎翁である。この記念館は下中記念財団が運営し、パール博士と下中彌三郎の業績を記念する。
 記念館は歩道のない国道を進んだところにある目立たない案内板に従って、ちょっと入ったところに、鬱蒼とした木々と夏草に包まれてひっそりとたたずんでいる。きちんとした施設だがやや老朽化していて、文字通り夏草の中で、今では訪れる人は極めて少ない、ということが見てとれる。日本にとって、あるいは世界の人々にとって訪れるのに意義深い記念館で、多くの人、とくに若い人には是非訪れてほしい場所であるが、諸般の事情でそうなっていない。なにしろ常駐の管理人が不在で、見学には前日に電話して、あらかじめ開鍵しておいてもらうシステムである。
 大きな吹き抜けになった2階建てで、一階の全フロアと、正面、大きな国境の無い世界地図の左右に広がった階段上の二階回廊に、びっしり両氏の展示品というか遺品、そしてパネルやアルバム状の資料が並んでいる。入ってすぐ、記帳簿が置かれている。ページを開いて気がついた。来訪者はほんとにまばら、月数人という感じ。そして記帳しようとした最新ページの右側に英語で短いメッセージを添えた記帳があった。なんとこの6月にパール博士の孫が訪れていた。歴史のリアリティを感じる一瞬である。
 そこには、ある意味身震いするような展示物が並んでいた。パール博士が東京裁判で座った判事席の椅子、インドで執務に使った特徴ある菱形の椅子と机、そしてあの法衣と靴があった。東京裁判で着用したものである。東京裁判で絞首刑に処せられた7人が、刑の執行3分前に花山教戒師に促されて密かに手錠のまま順に自署した毛筆の署名があった。
 沢山の文献資料がパネルだけでなくアルバム形式で置かれ、じっくり読むには相当な時間が必要だ。文献でよく見るパール判事の背広姿の写真は東京裁判のものではなく、裁判中にインドで亡くなった夫人の法要が築地本願寺で盛大に行われたときのものだった。インドで重病になった夫人が急遽帰国したパール博士に早期に日本に戻ることを促したということである。
パール判事は東京裁判の11人の判事中唯一の国際法で学位をとった判事だった。東京裁判の判決書は6種類、このうち6名がまとめたものが多数意見となり、あと5名分は個別の少数意見となり、当時公表が禁止された。パール判事の、裁判の根底を否定する全員無罪の判決書は英文で原稿用紙2,200枚、90万語ということである。
 ここは宗教施設ではない。ただの個人の記念館、歴史博物館だ。しかし、思わず手を合わせたくなるような、拝みたくなるような展示品の数々だった。いや品物だけではなく、そこには沢山のメッセージが込められていた。戦争の話、東京裁判のはなしとて、自分にとっては文書で知る歴史だ。しかし、ここにはその歴史のエビデンスが物の形で表現されていた。
 この記念館はあまた目にする箱根の華やかな案内書には出てこない。知ったのは東京、銀座のカレーで著名なナイル・レストランで会食する機会があったのがきっかけだ。店内に創業者、A.M.ナイル氏の上品な遺影が掲げられていた。興味をもってお店のWebサイトを叩いたら、氏の途方もない略歴が載っていた。そして氏の回想録「知られざるインド独立闘争」An Indian Freedom Fighter In Japanが最近再刊されているのを知って早速注文、その400ページ超の大著を通読してみた。波瀾万丈、そこにはある意味、今次の大戦の真実が記されているように思えた。巷間の評価とは全く違うアジアの歴史が綴られていた。この中にパール・下中記念館が紹介されている。A.M.ナイル氏はパール博士来日時の通訳も務めている人物だった。
 広島の平和記念資料館とのなんたる対比だろう。ここに現在の日本の現実が表出しているように思える。本来はこの記念館には広島の資料館と同じぐらいの人が訪れてもおかしくない。いつの日か、そういうときが来るかも知れない。
 東京の暑さを避けて滞在した箱根、短い滞在だが丁度8月15日にかかった。正午前に有線放送のスピーカーで役場から戦没者追悼の案内があり、正午にサイレンが響き渡った。数日前に萬福寺とパール・下中記念館を訪れたあとで、緑と清流に囲まれた環境、温泉と食事と、そして今回はリオ・デ・ジャネイロのオリンピックを楽しむ日常の中、少しだけ厳粛、というか重い気持ちになった。先人あっての今日だ。


(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)