スカイツリーのオーラを浴びながら、しっとり感の下町散歩4/4

三社祭、神輿の掛け声、お囃子の中を吉原大門から浅草寺へ 


吉原大門跡と見返り柳


 山谷いろは会商店街のアーケードを抜け、広い土手通りに出て、道端でいかにもといったポーズでたたずむ「あしたのジョー」に挨拶し、左手、スカイツリーのほうに折れると、ほどなく吉原大門、あの「見返り柳」に遭遇する。途中の家々には三社祭の丸い提灯が掲げられている。土手の伊勢屋という風情ある天ぷら屋さんの前を通った。見てるだけで天ぷらが食べたくなる意匠だ。あちこちから三社祭のお囃子、拍子木、そして神輿を担ぐ掛け声が聞こえてくる。
<<

三社祭、町内神輿の渡御風景

 「見返り柳」、その眺めは無粋な“セルフ”と大書きした看板のガソリンスタンドに埋もれていた。これはもう趣きナシ、なんていうものではない。はっきりとした遊郭の文化・歴史への反旗に見える。この街が、歴史の痕跡を消すために、更地にしてしまうよりもさらに強烈な意思表示をしているように感じられた。柳の足下に地味な小さい石碑、信号機の表示板に「吉原大門」。
 土手通りを進むと正面のスカイツリーが益々大きく迫って、祭囃子が賑やかになってくる。半纏姿の神輿の担ぎ手達が大勢集まって休憩している風景があちこちで見られる。その中に、なんと外人が混ざっているのだ。つまり神輿を担ぐために海外からも人が来ている。
 土手通りの突き当たり、亀屋銘木店前、文字通りスカイツリーの真下と感じるようなところで、神輿と山車の行進、町内神輿の渡御(とぎょ)に遭遇。担ぎ手、曳き手が余っている大行列。このあたりの町内神輿およそ100基というから凄い。威勢のいい掛け声のなか、道なりに南にまがって神輿と一緒に進むとにわかに人の往来が増え、ホコテンにもなって、雰囲気も異様に盛り上がってきた。
そこから浅草寺の大雑踏まで、なーるほど、これが昨今伝えられている東京の姿か、と思えるシーンが展開した。雷門は神輿を通すために提灯が少し巻き上げられている。祭の音のなか、パチリとやった門前の一枚はなんともアジア的な喧騒の風景になった。

 都電荒川線早稲田駅ではじまった団塊男子一行の下町散歩は一旦ここで終結、あとは雷門横で三社祭の活気を感じながらメンバーを大幅に増やしてのいつもの賑やかな宴席となった。
 なんなんだこの下町は。凄いじゃないか。新旧入り乱れた歴史の痕跡から、新しい時代へとひたすら歩を進めている東京の姿が視覚だけでなく聴覚や体全体で感じられる。
 小塚原も吉原遊郭も、その痕跡は抹消され、三社祭の神輿担ぎに海外からも人が来て、浅草寺は世界中からの観光客でごったがえす。労働者革命拠点の山谷は跡形もなく、「あしたのジョー」のふるさとだ。泪橋から出て行く、それも世界へ向かって出て行くことが讃えられている。
 永井荷風は若き日の米欧での活動から国際人であり、井の中の蛙ではなかったが、ことのほか江戸文化を好み、その幾分かを体得し、継承をこころがけた。明治、大正、昭和と活動したが、明治の遺風の消滅を惜しみ、自ら遺風の一部を実践体験しながら文章というかたちでその記録に才能をつぎ込んだ。そして時代の進展、日本の情景の激しい変化を観察しながらそれへのシニカルな態度を綴り続けた。それらの記録、夥しい文章は片言、画文から小説、日記に至るまで文学作品として現代でも多くの心を惹きつける結果となった。

 しかしこれは何だ。要するに、「昔は良かった、今は駄目、この先期待できない」、の類いじゃないのか。あるいは、とにもかくにも、「滅びゆくものを愛す!」ではないのか。
 昔はそんなに良かったのか。
 現代は閉塞しているのか。
 「滅びゆくもの」にそんなに魅力があるのか。
 それは違うだろう。
 永井荷風に隅田川河口、現代のベイエリアを歩かせてみたい。おそらくは腰を抜かして筆を取れない違いない。さらに、偏奇館跡では、仰天して声も出ないことだろう。
 東京スカイツリー、その高さが電波塔世界一になるまさにその瞬間、あの3.11大地震が襲った。余震のなか職人達の驚異的な働きで工事は続けられ、結果としてこうした試練を乗り越えてゆく日本の強靱さが実証された。
スカイツリーの足下を散歩して、そのオーラに感じるいまさらながらの凄みである。


浅草寺、雷門の賑わい、なんともアジア的な

(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)

アクセスカウンター