スカイツリーのオーラを浴びながら、しっとり感の下町散歩3/4

<span class="deco" style="font-weight:bold;">日本堤、山谷いろは会商店街と土手通り</span>


浄閑寺山門前の日本堤


 浄閑寺の過密な墓地から山門へ、永井荷風と幸薄かった遊女達に思いを巡らせ、門を出ると、あまり広くない道の正面に堂々のスカイツリーが見えた。青空を網の目のように電線が覆っていて、あたかも蜘蛛に絡めとられたような感じが面白く、パチリとやったところ、なんとこれが、かの日本堤だった。
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いろは会商店街

 南東のスカイツリーに向かって左側、つまり北東側からの荒川の氾濫を抑えるために、かつてここに堤があった。文学作品の背景になり、今では地名に名を残している。タモリの喜びそうなところだが、土地の高低差はよくわからない。
 右うしろ、つまり北西側から幅広の土手通りが寄ってきて、この先で合流する形でまっすぐにスカイツリー方向へ向かう。この辺り、パリのシャンゼリゼ通りの正面が凱旋門であるかのごとく、土手通りの正面はスカイツリー、ということになる。もっとも、その間には隅田川が滔々と流れているが。

 このあと散歩の一行は幹事に率いられて東へ、隣の日光街道に出た。この辺りが旧山谷、そういわれればちょっと街の雰囲気が違う。広い街道を東に進んで、大きな泪橋の交差点を渡った。聞けば、このあたり有名な小塚原の刑場があり、別れの橋があったということである。
今では水路はもとより橋の跡もなく、偲べるものは交通信号の上の表示のみだ。泪橋はあとで分かったが、もう一つ、重要なドラマの本拠だった。
 このあたり、ずっとスカイツリーに見下ろされるというか、見守られている感じになる。
 ほどなく、右手に日本堤交番というのがあった。これは知っている。かつてここで連日日雇い労働者と暴力団の騒擾事件があり、山谷のマンモス交番としてしばしばメディアに登場した。一時期、労働者による社会主義革命の起点にもなるかという雰囲気だった。
 そこを右に折れると、山谷、いろは会商店街という長いアーケードに入る。交番からアーケードのはじめの辺り、まさに旧山谷、独特の雰囲気である。文字通り、道の真ん中でアル中とおぼしき人が寝ている。パトカーや救急車がいるが、落ち着いたものだ。ここではこれが日常の風景なのだろう。
 アーケードの中央にずっと、「山谷、あしたのジョーのふるさと」という大きな垂れ幕が提げられている。両側に「いろは会ショップメイト」の明るい看板と「あしたのジョー」のイラストの垂れ幕が並ぶ。通ってきた泪橋はこの梶原一騎ちばてつやの漫画作品「あしたのジョー」の拳闘クラブのあったところだ。ここでは泪橋から出て行くことが大きな意味を持っていた。


土手通りの「あしたのジョー


 アーケードは暗い感じ。
 それもそのはず、店が全部閉まっている。たまりかねて一人が通りがかった人に聞いた。
 「今日は日曜だから皆、閉まっているんですか?」
 「違います。今日は三社祭で、このあとここは大賑わいになるんですよ。今は休憩時間です。」
 なーるほど、我々団塊男子達は、5.15の歴史感なく、三社祭の季節感もなく、浅草でクラス会を企画していたわけだ。これはこの先、楽しみだ。

 いろは会商店街の長いアーケードを抜けたところが、幅の広い土手通り。そこになんと「あしたのジョー」がいた。見事な等身大のフィギュアである。ちょっと挨拶したくなる。ここでは「あした」すら、はや歴史のモニュメントだ。
 ここまでくると、スカイツリーがかなり迫ってくる。


(注)日本堤 江戸幕府が元和6年(1621年)、待乳山を崩した客土で築いた堤防。土手の上は見通しのよい街道として利用され、明暦の大火の後に土手南側に遊郭が開業してからは「吉原土手」「かよい馴れたる土手八丁」などとも呼ばれた。1927年(昭和2年)に取り崩され、現在は土手通りとして痕跡を留めている。大阪市釜ヶ崎横浜市の寿町と並んで称される日本の三大人足寄場のひとつ。

(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)

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