スカイツリーのオーラを浴びながら2/4

しっとり感の下町散歩

三ノ輪の浄閑寺永井荷風

 三ノ輪商店街を抜けたところで幹事の、「次はジョウカンジ」、という声があった。むむっ、聞いたことがある、そう、あの永井荷風浄閑寺だ。昔、学生のころ、ちょっと縁があって訪れたことがある。それは広い昭和通りを渡ってほどなくしてあった。
 こざっぱりした山門の横に荒川区教育委員会の案内板、「投げ込み寺(浄閑寺)」となっている。寺の敷地の半分が近代的に改装(あるいは改葬)された感じで、古来の墓地は裏手で都会らしくマンション群に囲まれ、過密・狭隘だった。
 奥に進んだところにあった、記憶にある永井荷風の記念碑。それは他の墓石を押しのけるように横長に広いスペースを占め、壁面の大きな黒い石版に永井荷風のかなり長い一文(詩)が刻まれていた。「震災」の一節と示されている。その隅に筆塚と呼ばれるゆかりの品が納められているやや赤っぽい色の磨かれた石で洒落た感じにデザインされた小さな碑があり、花が手向けられている。以前、納められているのは入れ歯、と聞いた記憶がある。
 あとで調べたら、壁面の基板は御影石、筆塚は花畳(はなたとう)形といわれ、スウェーデン産の薄代赭(たいしゃ)色御影石だそうだ。畳、たとう、伝統的な折り方で畳む包み紙だが、いまはあまり使わないことばだ。

 壁面の長い碑文の中に、
  『われは明治の兒ならずや。
  その文化歴史となりて葬られし時
  わが青春の夢もまた消えにけり。』
 の句が見える。これは偏奇館時代の文だ。永井荷風に「青春の夢」といわれても、あのめちゃくちゃな「おかめ笹」や「腕くらべ」、そして「隅東綺譚」からは想像もつかない。
 この碑は、新吉原總霊塔という観音像を載せた石造の霊廟のようなものに向かい合っている。ここには2万人を超える無縁の遊女が葬られているとのこと。安政の大地震で亡くなった沢山の方々を葬ったのが起源という。
 永井荷風はその出版用日記、まさに今日のオフィシャル・ブログに相当する断腸亭日乗で、自らもこの寺に葬られることを望んだそうだが、叶えられなかった。実際は雑司ヶ谷で両親の間に葬られている。雑司ヶ谷と言えば、今、通ってきたばかりだ。まるで永井荷風のために薔薇の花に飾られた都電荒川線が走っているみたいだ。
 そういえば雑司ヶ谷永井荷風の墓は、あの幕末、米英仏露蘭5ヵ国との開国条約、いわゆる安政五ヵ国条約のすべてにサインした唯一の人物、岩瀬忠震(ただなり)の墓と向かい合っている。多くの遊女に囲まれた三ノ輪、浄閑寺、幕末、開国の幕臣と向き合う雑司ヶ谷、なんということだろう。

 永井荷風については、ちょっと関心をもって、考証家、秋庭太郎の常軌を逸した考証大著四部作のうち、一番新しい「新考 永井荷風」を通読したことがある。永井荷風の膨大な作品はそのほんの一部にしか接したことがないが、じつに多彩な顔がある。
 いわゆる花柳文学は別として、「日和下駄」はまさにきょうのような下町散歩をブログに綴った感じで親近感が持てる。永井荷風の現代日本での人気がよく分かる作品だ。
 そして特異なのは「下谷叢話」。主人公は永井荷風の母方の鷲津家の二人、祖父の鷲津毅堂と大伯父の大沼枕山。神田、お玉が池に集う漢詩人たちの姿をとても長い年月をかけて淡々と描き出した。この二人がまことに対照的な生き方をした。大沼枕山はひたすら俗世間に背を向けた生涯を送り、そして鷲津毅堂は幕末、吉田松陰とも交流するような勤王の志士から、明治新政府の樹立に多大な貢献をした尾張徳川慶勝(よしかつ)に従って維新の中枢を駆け抜けた。永井荷風の目は愛情と尊敬をもってこの二人に均等に注がれているような気がする。そこに永井荷風のサムライとしての一面が感じられる。
 大江健三郎ノーベル文学賞は喜んだが、文化勲章は断った。永井荷風文化勲章を受け、この受賞は断腸亭日乗が評価されたからだろう、と語ったと伝えられている。花柳作品や散歩文学で勲章を貰ったとは思わなかったわけだ。
 その断腸亭日乗に明治初年の岩倉使節団を嗤う場面がある。昭和十年、12月12日、14日、米欧回覧実記を読んで、『時々人をして失笑噴飯せしむるものあり』、といって、以前攘夷一点張りだった伊藤博文大久保利通の変節を嗤い、堀田備中守や井伊掃部頭(かもんのかみ)の開明は、薩長浪士の比では無かった、としている。
 遊里に遊蕩の限りを尽くした永井荷風ではあったが、尾張に起源をもつサムライでもあった。


(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)