「幕末・明治モノ」に覗く「電気情報通信」(5)

佐久間象山」:松本健一に導かれて(下)
天下にかかわり有るを知る


 松本健一に導かれての「佐久間象山」、再び「電信」が登場するのは、弟子の吉田松陰下田踏海事件に連座し、幽閉生活になって、その中でも生活の管理が一段と厳しくなってから2年目あたりのことである。佐久間象山は気落ちする中にも矜持を失わず意気軒昂であった。ときに安政五年(1858年)3月、安政の大獄の少し前、京都にいた梁川星巌あての手紙が紹介されている。

 佐久間象山は、いわば獄中での思索を紹介する中で西洋の「三大発明」について言及した。西洋の「三大発明」とは何か、それはどのような文明の進歩を西洋にもたらしたか語っている。一部をそのまま引用する。(読み仮名の表現を一部変えています)
 『全世界の形勢、コロンビュスが究理の力を以て新世界を見出し、コペルニキュスが地動の説を発明し、ネウトンが重力引力の実理を究知し、三大発明以来、万般の学術皆其根柢を得、聊(いささ)かも虚誕の筋なく、悉皆(しっかい)着実に相成、是に由(よっ)て欧羅巴・弥利堅(メリケン)諸州次第に面目を改め、蒸汽船、マグネキセ・テレガラフ(磁石電信機)等創製し候に至り候て、実に造化の工を奪い候義にて、愕くべく、怖るべき模様に相成申し候。』
 「造化の工を奪い」、というところが分からないが、推定するに万物創造の創造主の力に取って変わり、というような意味かも知れない。全世界はまさに「驚くべき、恐るべき状況」ということである。大発明がもたらしたモノとして、蒸汽船と電信機を挙げているところがさすがだ。これに蒸気車、つまり汽車による鉄道が加われば、のちに岩倉使節団の世界旅行で記録係の久米邦武が総括した米欧の富強の源泉そのものになる。
 佐久間象山にとってはほとんど書物で知るだけの世界情勢だっただろうが、その時代を透徹する眼力には敬服するしかない。もちろん蒸汽船は陸から望遠鏡まで使ってしっかり見ていたし、電信機は自ら製作、実験していた。一方、汽車や鉄道は別の文献で言及はしているが、現物を見たり自作するすべはなかった。
 この手紙では、要するにこれからは世界全体を視野に入れた国家経営でなくてはならないということを主張していた。
 梁川星巌、聞いたことのある名前だ。そう、あの永井荷風がその生涯を費やして書き上げた特異な史伝的作品「下谷叢話」にたっぷり登場する。多くの文人・知識人が居を構え、連日のように詩筵、つまり漢詩の会合が開かれていた江戸「お玉ケ池」ほとりの漢詩人達の世界だ。梁川星巌はある時期ここで玉池吟社(ぎょくちぎんしゃ)を主宰し、詩壇の指導的人物だった。
 ここに出入りする知識人、門人、そして影響を受けた人物あまたである。佐久間象山はその隣に家を持って交流し儒学の私塾を開設した。梁川星巌は江戸で10年ほどの活動ののち京都に出て勤王の志士たちの精神的柱としてその影響力を駆使していたが、安政の大獄の3日前にコレラで没した。逮捕確実だったのに大獄に連座すること無く、「死に(詩に)上手」と言われたとのことである。
 岩波文庫版「下谷叢話」のカバーには、関東大震災の『翌年、45歳の荷風は、幼い一時期を過ごした下谷の家、そこに住んだ母方の祖父鷲津毅堂やその周辺の、時代の潮流に背を向けた幕末維新の漢詩壇の人々を、大きな共感をもって描く。』と成瀬哲生の解説の一節が掲げられているが、これは当たらない。
 「下谷叢話」には当時の漢詩壇の夥しい人物像があるが、その主人公は大沼沈山と鷲津毅堂である。この二人は同じ鷲津家の出ながら対照的な人生をおくった。大沼沈山は解説の通り、頑なに時代の潮流に背を向けた生き方をし、一方鷲津毅堂は先に述べた魏源の聖武記の和訳など尊攘の志士そのもので、追って尾張藩徳川慶勝に従い血みどろの幕末を疾駆、新政府では東北、登米県の権知事に任命されている。
 永井荷風がそのいずれの生き方に共感を持っていたかはわからないが、その作品群から類推すれば、おそらくは双方であったろう。
 いずれにしても、あるとき、日本の伝統的な知識人がお玉ケ池のようなところの漢詩壇に集い、感性と知を磨いていた。そこへ洋学の刺激があり、アヘン戦争と黒船来航があった。そして一群の俊英達が一気にそれまでの知性の蓄積を背景に、西洋の思想、文物を吸収しながら新しい日本の建設に突き走った、ということであろう。
 その先頭に異才佐久間象山がいて、その視野の片隅に「電信」というかたちの電気通信があった。
 佐久間象山はその後安政の大獄によって松代での蟄居生活が長くなり、それは吉田松陰の踏海事件から9年におよんだ。「省諐録」はこの中で執筆された。象山神社の碑文に刻まれていたのはその結びの一節である。「省諐録」は漢文の本文だけで文庫本で19ページ、付録が25ページにもなるのに何故この一節なのだろう。
 
 松本健一は「省諐録」について紙数を割いて詳しく論じている。それによると、佐久間象山は自意識・自負の強烈な人物だった。それも日本を背負う愛国者としてのそれだった。碑文(の書き下し文)を再掲してみる。
 『余年二十以後、乃ち匹夫も一国にかかわり有るを知る。三十以後、乃ち天下にかかわり有るを知る。四十以後、乃ち五世界にかかわり有るを知る。』
 この中の「天下にかかわり有るを知る」は、藩や幕府を守るためでなく、わがくにを守ろうという自意識の表明であるという。これは嘉永安政年間の人間の気概としては画期的だった。1964年、佐久間象山百年祭にして東京オリンピックの年、日本電信電話公社はこの気概に共感したに違いない。ここに象山神社、省諐碑の謎は解けた。石碑のスポンサーとして電電公社はまことにふさわしい企業だった。
 その後裔たるNTTグループはどうか。まさに「世界にかかわり有るを知る」であろう。


(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)