「幕末・明治モノ」に覗く「電気情報通信」(1)

プリンス・トクガワと渋沢栄一、そして栗本鋤雲

 「電気情報通信」は近代国家の屋台骨を支えているのだが、気のせいか、その存在が歴史の表舞台に露出する場面は少ない。社会基盤というのはそういうものかも知れない。革命期の幕末、明治ではどうだろう。いわゆる「歴史モノ」を読んでいると、「電気情報通信」が顔を出す場面が時々ある。そんな場面を並べて楽しむのは趣味の領域かも知れないが、斯界の先駆者への認識を新たにするという意味でなにがしかの意義はあるだろう。以下にこの分野に長く身を置いている者として、気のついたイベントのコレクションを綴ってみた。

 現代でも、たとえば安倍首相が首脳会談や議会演説などを主目的に訪米したとき、最初にシリコンバレーを訪れ、Facebook社でカジュアルウェアのザッカーバーグに迎えられたとか、インドのモディ首相訪米時にはこれが背広にネクタイだったとか、一方中国の習近平国家主席の場合はシアトルのMicrosoft社にIT企業幹部を集めて、皆と整列した集合写真を撮った、などなど、華やかな舞台を飾る場面がないわけではない。
 では、まずはじめは徳川昭武渋沢栄一徳川昭武は最後の将軍徳川慶喜実弟にして、最後の水戸藩主。明治政府にも貢献し国際的な活動もある。今に伝わる大名屋敷、戸定邸の設計者としても知られ、歴史に名を残した。慶応三年(1867年)15歳の時に将軍徳川慶喜の命により、パリ万国大博覧会に将軍の名代として派遣される。以降9ヶ月にわたり欧州に滞在、数々の公式行事をこなし、欧州各地を巡遊、広く西洋事情を調査・吸収した。
 渋沢栄一は、幕末、苗字帯刀を許された豪農の跡継ぎの身から、撃剣に長けた狭量な勤攘志士を経て数奇な経緯で徳川慶喜に仕え、新撰組の疾駆する京都で活躍、徳川慶喜の命で徳川昭武に従って欧州へ随行。旺盛な好奇心と不断の努力により、近代国家の建設と運用に必要なありとあらゆる技術や制度を吸収して持ち帰った。維新後説得されて政府に出仕、金融・財政政策を中心に新政府の骨格を作り出したのち本望だった民間に転出、金融、製紙、紡績、海運など近代国家に必要な広汎な産業を興し発展させた。昭和6年(1931年)91歳で没するまで国家と産業界への働きの手綱を緩めることなく、教育や社会福祉、日米国民外交などを含む幅広い分野に貢献した。
 この2人の活動については津本陽の大著「小説 渋沢栄一」に感動的に描かれている。その中に数カ所「電気情報通信」が顔を出す場面がある。
 肝心のパリ万国博覧会、当然電気通信関係の出展はあったはずだが、津本作品には陽には出てこない。ここには各国のありとあらゆる先進産業技術が出展されていて、徳川昭武一行は目を丸くし、それは参加者の帰国後の活動を通してその後の日本の発展を支える重要な経験となった。
 津本陽は、渋沢栄一がパリで新聞の存在を知り、新聞と服飾産業あるいは帽子の流行との関係、そして新聞に世論を左右する力のある点に着目したことを記している。
 電気通信が登場するのは大博覧会終了後の欧州巡歴である。この4ヶ月におよぶ公式の旅は猛烈である。その目的は幕府の立場の各国への周知にあったが、実際は西洋事情の吸収だった。将軍の名代、プリンス・トクガワとして各地で国王謁見や政財界の要人の歓待を受けながら、鉄道や艦船あるいは馬車で街並みや風光、交通路はもとより、主要な軍事・産業・公共施設を精力的に視察した。パリを起点に3回に分け、1回目はバーゼル、ベルン、ジュネーブ、ボン、ハーグ、ブリュッセル。2回目は、チュラン(トリノ)、フィレンツェミラノリボルノそしてマルタ島マルセイユ。3回目はカレーからロンドン、ドーバーのコースを辿っている。
 このうちスイスのジュネーブ近くで市内の時計製造所を巡覧し、新発明の文字を摺出しできる電信機を視察した。これは近く幕府が購入することが決まっていたもので、渋沢栄一はその精妙さに感心したということである。今でも要人の海外訪問時、そこから購入予定の新製品の工場などを視察するようなことはよくある。ついこの間も中国の習近平国家主席が訪米時にボーイングの旅客機工場を視察しているニュースがあった。慶応三年、プリンス・トクガワは渋沢栄一ほかを伴ってスイスで購入予定の最新の電信機製造現場を視察していたわけだ。
 ここでもう一人のプレーヤが登場する。外国奉行、栗本安芸守、号は鋤雲である。徳川昭武一行が日本を出発したのは1月、もともとこの使節派遣はフランスの提案によるもので、旅はフランスに支援されていた。しかしその後幕府の将来を見限ったフランスとの関係がおかしくなり、新たにイギリスとの関係が生まれていた。このややこしい関係を調整するために幕府は6月になって急遽幕閣として国際業務で活躍していた栗本鋤雲らを派遣し、スイスから合流させた。栗本鋤雲はのちに新政府ではなくジャーナリストとして活躍する気骨の人物で、この時の欧州の状況を「暁窓追録」という短いエッセイ集にまとめている。これは岩波文庫で読める。井田進也、校注「幕末維新パリ見聞記」に収録されている。
 この中で栗本鋤雲は「電信網の発達」という一節を設けて、パリからセイロンまで5日で情報が飛ぶはなしや、スイスで幕府の購入した電信機の今で言うファクシミリのような機能への驚きを率直に綴っている。「筆格一点を誤タズ」というから、毛筆を送受信してみたのだろう。向山黄村、田辺太一、箕作貞一といったその後の日本の歴史を彩る人物の名前が登場する。彼らの驚きはおそらく徳川昭武一行のすべてが共有したに違いない。この場面については井田進也が解説で補足している。たとえばその街の名は「ヌーシャテル」。ここは今日でも風光明媚な観光地としてだけでなく、時計精密機械産業の中心地として著名である。ちなみにこの解説は、「暁窓追録」はのちに(大正二年)フランスに滞在した島崎藤村が耽読し、栗本鋤雲は「夜明け前」(第一部)第四章に外国奉行、喜多村端見として登場することを教えてくれる。
 徳川昭武一行は旅の3回目のイギリス訪問時、ロンドンでタイムス社を見学している。渋沢栄一は僅か40人の従業員が2時間で14万枚余の新聞を印刷し積み出す様を前に、日本でこのようなことができるのはいつの日か、と眺めていたとのことである。
 渋沢栄一は帰国後しばらくの経緯の後、大隈重信に説得されて新政府に出仕、民部省改正掛として国家運営機構の骨格を作ることになった。このときに盟友として一緒に働いた人物に前島密がいた。二人は力を合わせ、渋沢栄一は電信と鉄道を、前島密は郵便制度を立ち上げた。「小説 渋沢栄一」には渋沢栄一が電信機と蒸気車の製造を切々と訴える明治三年の建議書について情熱的に描かれている。
 いまだ日本全体が「井底の痴蛙」(井の中の蛙)状態で不毛の議論がある中、欧州巡遊でいやというほど実感された電信と鉄道の恩恵を日本にもたらすべくまことに迫力ある建議となっている。
渋沢栄一についてはもう一つ欠かせない話題がある。渋沢栄一記念財団がWebサイトで提供している情報に「渋沢栄一関連会社社名変遷図」という驚異的な資料がある。この通信部門を見ると、渋沢栄一は大正八年(1919年)に日米電信株式会社を設立し、これを大正十二年(1923年)に日本無線電信(株)としている。渋沢栄一79歳から83歳の話だ。古稀を契機に多くの公職を辞したあとの情熱と言えよう。そして渋沢栄一没後これが昭和十三年(1938年)に国際電話(株)と合併して国際電気通信(株)が誕生、終戦により解散、戦後新たに国際電信電話(株)として再出発、いくつかの合併を経て今日のKDDI(株)に至っている。国際電信電話(株)の初代社長は渋沢敬三渋沢栄一の孫にして後継者だ。今日日本の産業界を支えている多くの企業の源流をたどると渋沢栄一の働きにたどり着くことが珍しくないが、KDDI(株)の国際電気通信事業もまたその一つだったことになる。
筆者は数年前にロンドンを訪れたとき、時々ニュース映像で見るその経済活動の中枢部を仰ぎ見ようとCanary Wharf地区を見物した。そこは見事に再開発された大迫力の近代的な金融センターだった。そのちょっと外れにロンドンの通信ゲートウェイと呼ばれる様々な施設の並んだ地区がある。このあたりを貫く新交通システムの駅の名前もEast India、かつての帝国へのノスタルジーも感じられるその駅前に大型データセンターがあるのを見つけた。センターの主はKDDI、ここからTELEHOUSEと名付けたグローバルサービスを提供している。さらにここにはNTTの国際法人の設備も収容されていた。渋沢栄一徳川昭武とロンドンの地を踏んでから140年余、その間の日欧の産業力の推移を思うと、ちょっとした感慨である。

(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)

 

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