(続)絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(13=完=)

外交。また外交

 米国カリフォルニア州での日本人排斥政策の具体化で、各州の独立性を思い知った明治政府は、政府間だけでなく国民外交の必要性を痛感した。


東京、王子、飛鳥山、渋沢史料館で

 明治四十一年(1908)の末になって外務大臣小村寿太郎は商業会議所に米国との国民外交の推進を依頼し、会頭の中野武営と渋沢栄一はこれを理解した。そして小村外相、中野武営会頭のすすめで、渋沢栄一はすでに会頭を辞していたのだが本件は会頭の立場で陣頭に立つこととなった。
 最初のイベントは、日本の各都市の会議所連合で、米国西海岸各都市の代表者の招待だ。明治四十一年10月、この招待でサンフランシスコなど各都市の商業会議所代表50人余が日本を訪れ、前例のない規模の民間外交となった。代表団は約1ヶ月滞在し各地を訪れ、日本側の接遇は丁重を極めた。渋沢栄一飛鳥山の自邸で大歓迎宴をはった。
 津本陽は曾孫渋沢雅英氏の著書を引用して、渋沢栄一がその経歴やこうした活動から、数多くの米国人の間で、地位や身分に関係のない特別な人物と見なされ、類のない敬愛をうけるようになり、それが国民外交の基盤となっていった、と伝えている。
 次いで翌年5月、米国西海岸商業会議所の代表たちから返礼の招待があった。招待状は31人に届き、全米53カ所の都市を回るというものだった。70歳になった渋沢栄一は当時体力に自信が持てない状態だったが、もちろん米国側は渋沢栄一の渡米を懇願した。日本では会議所幹部が相談したが、代表者は渋沢栄一しかいないとなり、中野武営ほか3人が渋沢栄一を訪れ訪米団長を依頼した。
 「死んだ気になって行ってみよう」
 が答えである。
 渡米するのは31名の正賓のほかに米国側の希望で各産業の専門家、医師、ジャーナリストなどが含まれ、50余名の実業団となった。中野武営も同行している。90日間で全米62都市を歴訪する強行軍だった。
 
 津本陽渋沢栄一の残した言葉などを参照しながら伝えるその様子は、感動的なものだ。旅程は専用列車で様々な人を含めて150人余で各都市をめぐる大規模なものである。
 ある駅での約束が9時であると、7時頃に到着し車中朝食となる。9時に歓迎委員が来て、4〜50台づつの迎えの車に分乗して方々を回る。多くは市役所へ、少なくとも100人の歓迎があり、そこで歓迎の辞を受ける。次いで学校、公園などをめぐり多くはカントリークラブへ。300人程度の歓迎、多くの人と握手、歓談、午餐に。ここで5人程度の演説があり、日本も1人、2人と挨拶。3時から4時頃終了。それから工場、土地の名物などを見学して、汽車に戻る。今度は燕尾服、勲章などを付けた正装になって、晩餐会へ。多くは立派なホテルや名士の館へ。ここでも多くの演説がある。終わるのがたいてい午前1時過ぎになる。そして汽車に戻ってようやく休息。ここで汽車は次の目的地に向かって再び動きだし、翌朝からまた同様の行動となる、といった有様である。
 この徹底した見聞で渋沢栄一は日本の到底及ばない米国の国力を思い知った。また、同時に米国が日本の力を相当に過大評価している事を察知しこれを恐れ、それが将来の禍根となることを案じた。ワシントンでタフト大統領と食事を共にし、ボストンでペリー提督の墓に詣でている。そのあとの旅程中、伊藤博文遭難の悲報に接し声を上げて涙した。
 歴史はこの70歳の大旅行を最後の外交旅とするのを許さなかった。明治四十五年(1912)、明治天皇崩御、あけて大正二年、カリフォルニア州で「排日土地法案」が発効した。渋沢栄一は日米同志会の会長として代表を派遣し陳情、駐米大使の大統領への談判もあったが効を奏さなかった。同じ年、渋沢栄一清朝を倒した革命家、孫文を東京に迎え大いに語り合った。
 大正四年(1915)、今度はサンフランシスコの博覧会参加を契機に9人の実業家とともに3度目の渡米。世界大戦の翌年である。これも米国労働界、産業界あげてのビッグ旅行となった。
 大正九年(1920)、子爵を授爵。さらに大正十年10月、82歳で4度目の渡米を敢行している。カリフォルニアの排日緩和と、ワシントンでの関係諸国の安全保障の会議の傍聴を主目的とした。今度こそ命がけだった。厳寒の米国大陸でのハードスケジュールで、講演回数は90回に及ぶ。留守中に渋沢栄一を東京駅に見送った原敬首相が刺殺された。これはその後の日本の運命を非常に暗いものにした。排日緩和の働きはなかなか効を奏さなかった。
 大正十二年、関東大震災、世界中から莫大な義捐金等が寄せられた。米国からも反日気運の高まる中国からも巨額が届いた。大正十四年には孫文が北京で亡くなる。昭和を迎え、昭和二年、40歳の後継者、蒋介石飛鳥山邸に88歳の渋沢栄一を訪ねてきた。青淵文庫のテラスで二人が握手している写真がある。蒋介石の心には論語の精神を説く渋沢栄一の印象が長く残ったということである。
 渋沢栄一は昭和四年(1929)12月、宮中に召され、単独で午餐の陪食を命ぜられ、また、昭和六年5月、皇太后陛下に拝謁を賜り、養育院への長年の尽力にご嘉賞を得た。この年11月、国際情勢が厳しさを増す中、渋沢栄一は悠然と世を去った。享年91歳。我々が写真で目にするその葬列の規模は驚くものだ。

 東京駅八重洲口のほど近く、常盤橋公園で遭遇した銅像とその銘板の説明から、どうして一人の人物がこんな業績を上げ、かくも偉くなることが出来たのかと素朴な疑問から始まった渋沢栄一の探求、津本陽の大著「小説 渋沢栄一」に導かれて、満腹の独白録寄稿となった。
 筆者にとって渋沢栄一は文献に登場し、銅像を仰ぎ見る歴史上の人物だ。しかし本稿執筆中その距離がちょっとだけ縮まる事があった。渋沢史料館では様々な展示会がある。その中に、2002年10月に開催された『「女大学」から女子大へ、渋沢栄一の女子教育への思い』という企画展があり、その図録が頒布されている。これに東京女学館所蔵の「東京女学館株敷勘定元帳」の内容が収録されている。それは明治二十年代、東京女学館に出資した女子教育奨励会会員179名とその出資額のリストである。なんとこの中に、渋沢栄一と並んで海運バトルの項で紹介した筆者の曾祖父の名があるのを見つけた。
 季節ごとに墓掃除に駆り出されている墓所の購入者にして中心的な被葬者となっている曾祖父その人である。こうしたささやかな個人的発見が、渋沢栄一の生涯のリアリティを俄然高めてくれた。
 いやー、みんな頑張っていたんだ。まさに「公に奉じた人びと」の働きの積み重ねの上に今日がある。
 そういう感覚を現実感を伴って強めてくれた今回の渋沢栄一探求だった。(完)