(続)絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(10)

授爵そして国民外交

 津本陽「小説 渋沢栄一」、終段に来て授爵の話題がある。団塊世代にはピンとこないが、いくつかの大きな含意がある。


晩香廬(東京、王子:飛鳥山
 
 爵位については、以前、幕末の歴史を概観しているなかで、江戸時代のいわゆる大名家、300藩近いのだが、そのうち維新まで責務を全う出来た大名が明治になって概ね「子爵に叙せられました」、という記録になっていて、そんなものかという認識をもった。あとはもっぱら三島由紀夫の戯曲の世界のはなしだ。
 渋沢栄一は明治三十三年、男爵を授爵した。津本陽はこの授爵に関し、渋沢栄一本人の言葉を紹介している。要約すると、これまで渋沢栄一はひたすら商工業に従事するという信念で、政界など商工業以外の事柄には厳しく接触を避ける生き方をしてきた。そして一般に爵位はすべて政治に関わる名誉だったので、授爵は予期せず、拝受がためらわれたが、皆から実業の発達への貢献が天聴に達したのだという解釈が伝えられ、祝われたので心を安んじることができた、ということである。
 これは、いわゆる立身出世、栄達追求に背を向けた生き方の結果としての栄誉であり、渋沢栄一を象徴するエピソードといえよう。感覚的には今日ではこうした人物はほとんど目にすることができない。
 爵位をめぐって、もう一つ大きな話題がある。徳川慶喜である。渋沢栄一は大蔵省を辞した後しばしば慶喜のもとへ伺候し、容易に胸の内を明かさない旧主の真意を次第に理解するようになった。それは、ようするに、内戦に陥り外国の侵略を受ける悲運を避ける行動だった。徳川慶喜は小勇に駆られることのない、実に偉大なお人柄であった、ということになる。
 徳川慶喜は明治二年に謹慎を解かれ従四位、これが明治二十一年に従一位になったが華族に列せられることはなかった。これに対し、渋沢栄一は旧将軍にふさわしい社会的活動ができるようにしてさしあげたいと苦慮した。その一例として明治二十六年、旧幕臣福地桜痴(源一郎)に慶喜公伝記記述を相談した。これはその後紆余曲折、大正七年に『徳川慶喜公伝』全8巻の刊行として実現している。そして渋沢栄一の努力で、伊藤博文桂太郎らの尽力により、遂に明治三十五年、徳川慶喜は公爵となった。同じ年、西郷隆盛の嗣子(寅太郎)が侯爵授爵の恩命を受けている。このあたり、明治の戦いの性格と、明治政府の強い挙国体制指向が見える。
 渋沢栄一はこうした明治の元勲を動員した工作に飛鳥山の別邸を使ったとのことである。徳川慶喜伊藤博文井上馨大隈重信らの飛鳥山での交流場面はどんなだったのだろう。
 津本陽は全部で九部構成の「小説 渋沢栄一」の第八部に「国民外交の秋(とき)」というタイトルを設けている。それは明治三十五年の欧米歴訪に始まる。渋沢栄一62歳、人生の収穫期という意味の秋とも考えられるが、そこにはもう一つ、明治を駆け抜けた日本が大正の繁栄を見、そして課題の多い昭和へと突入する時期が「秋」という表現になったのかも知れない。この欧米歴訪は全国商業会議所を代表し商工業視察のための欧米各国巡遊だった。半年間、妻同伴の大旅行だった。
 東洋汽船アメリカ丸で横浜発、サンフランシスコ、シカゴ、ナイアガラ瀑布を経てニューヨークに12日間滞在、この間ボストン、フィラデルフィア、ワシントン、ビッツバークを訪れた。そしてロンドンへ渡り1ヶ月滞在、この間欧州各国、ブラッセル、ベルリン、リヨン、パリを経て再びロンドンからニューヨークへ、シアトルから加賀丸で帰国した。

 ワシントン・タイムスなどの米国メディアが渋沢栄一の大富豪ぶり、日本の産業界での位置づけを伝えたので、周遊する各都市の有力者が一行を大歓迎した。ニューヨーク財界で錚々たる企業主と会談し,手形交換所、商業会議所の歓迎会に出席した。
 この間の渋沢栄一の紀行記録は詳細を極めた。米国のあらゆる領域での豊かさに目を奪われる。大陸横断で見た海のような耕地での農業、少ない人数による高い生産性と生産力。集約的零細農業集合体の日本と対比される。ピッツバークのカーネギー製鋼所のような巨大かつ高能率の製鉄業の機械化状況と高い生産性を見て、人海戦術型の日本と対比される。企業連合、トラストの役割に気づき、同業者がいがみあう日本と対比される。さらには、自身単身移民であるカーネギーの経歴に着目し、青年を抜擢する米国社会に感心する。
 ナイアガラの水力発電カーネギートラストの鉄工所、フィラデルフィアの汽車製造所、シカゴの鉄道客車製造所、ボストンの織物、ニューヨークの煙草製造業、などを見学し、日本とは全く異なる巨大企業の共通する特徴に気づいた。それは小さな事務所、壮大な工場で、日本の実情と正反対だった。
 ルーズベルト大統領にホワイトハウスで謁見。渋沢栄一は今日の日本の地位への米国の尽力に感謝した。大統領は、日本の近頃の進歩、美術、軍事の世界での名声をたたえ、北清事変での勇敢さ、厳正な規律、への敬意を述べた。これに対し渋沢栄一は、次回は商工業についてもお褒めの言葉をいただけるようになりたい、と返した。また米国の商工業の大発展を評価し、商工会議所の交流を依頼、大統領の快諾を得た。
 当時米国の有力者の中には、その徹底した利益追求の姿勢を憂慮する者もいて、そうした心情を渋沢栄一に吐露することがあった。その一例が財界人ウェッドで、米国人の驚くべき拝金思想を指摘した。ニューヨークの財界人などの拝金主義の傾向から、米国はついには拝金宗の餓鬼道に陥るのではないか、という危惧を伝えた。日本は芸術の国、形而上の観念が著しく発達していると聞くが、渋沢栄一の米国の物質的事物の観察は外道の稽古ではないか、という指摘である。渋沢栄一のこたえは、日本は形而上の観念はおおいに発展しているが,物質上の進歩は何一つ見るべきものがない、日本は努力しなければならない実情にある、ということだった。
 このようなやりとりは、今日の日米関係を知る現代人にはまったく胸の詰まるはなしだ。
 渋沢栄一は米国の国家を構成する人々の協調した活動に大きな優位を見いだし、次の訪問地ロンドンへ向かった。