Where Are We Now?

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 ご贔屓のロック・シンガーのひとりデヴィッド・ボウイが久しぶりに新曲を出したというので,さっそくインターネットに流れているプロモーション・ヴィデオを眺めてみた.タイトルは “Where are we now?”. 歌詞も映像も,10年前と変らぬスマートな出来栄えであった.
 去年,SRAの創立45周年ということで『ソフトウェア・グラフィティ』という回想録のようなものをまとめさせられたのだが,その途中で何度か「われわれはいまどこにいるのか.ソフトウェア技術やビジネスはこれからどうなって行くのだろうか」という疑問を覚えたことを思い出した.
 尖閣問題が世間を騒がせているのと偶然の同期をとって年末に出版された『日本人は中国をどう語ってきたか』(子安宣邦著,青土社刊)のページを正月休みに眺めながら,「われわれはソフトウェアをどう語ってきたか」という問いが頭の中に繰り返し浮かんできた

 子安宣邦先生の日本思想史についての仕事を知ったきっかけは,20年近く前に会社の近くの書店で購入した『事件としての徂徠学』(青土社刊,現在はちくま学芸文庫に入っている)だった.別に徂徠に興味があったわけではなく,「事件としての」という変わったタイトルに惹かれただけだったのだが,この本からは,そのころ自分が関心を抱いていたソフトウェア・プロセス問題を考える上での大きな知的刺激を受け,それ以来、17〜18世紀における江戸哲学の世界の魅力に引き込まれて現在に至っている.

 学生時代の間接的な恩師だった大森荘蔵先生の『知の構築とその呪縛』(ちくま学芸文庫)も,伊藤仁斎の思想とデカルトに代表される西欧哲学とを対比して論じた名著だと思う.そして,幕末の浪速に存在したユニークな町人哲学者コミュニティの全貌を描いたテツオ・ナジタ先生の『懐徳堂』(子安宣邦訳,岩波書店)も,今後多くの人の注目を集めてしかるべき1冊だろう.
 子安先生の旧著『方法としての江戸』(ペリカン社)では,竹内好の「方法としてのアジア」を下敷きにして,現在の視点から江戸哲学を回顧するのではなく,江戸の視点に立ち返って思想の流れを点検するというアプローチが提案されている.わたし自身『グラフィティ』執筆に際して,構造化技法とは何だったのかを考えるのにこの手法を試みてみたのだが,紙数や時間の制約もあり,不十分な結果に終ってしまった.
とある酒席でそんな愚痴をこぼしたのを記者会の佃均さんが聞きつけて,「それなら書き足りなかったところを存分に書いてみたら」とけしかけられてしまった.今年は少し時間の余裕がとれそうなので,「ソフトウェアはこれまでどう語られてきたか」を,さまざまな話題をランダムに取り上げながら考察してみようと考えている.