生物学的速度の限界を超えたITは破壊者か創造者か  

 最近、「IT」とか「デジタル」という言葉に嫌悪感を覚えるようになってきた。贔屓の引き倒し、悪女の深情け、可愛さ余って憎さ百倍、いやいや歳のせいーー等々、どのような言い方をしても構わない。IT産業のド真ん中にいながら、と言われれば、申し開きできないことかもしれないが、敢えて「だからこそ感じること」と強弁しておく。

 筆者は実は別の趣味を持っていて、それは「アジアの中の日本」という視点で歴史を眺めることなのだ。むろん専門的に勉強したわけではなく、関連する市販の書籍を手に取っては「ふ~ん、なるほどね」と感心するに過ぎない。それにしても、全国の地べたを掘り返し遺物を調べ尽してもなお、新しい歴史の発見があるのは驚きに値する。 ついでながら最近の”新知識”は、十二支の子・丑・寅・卯……に、鼠・牛・虎・兎……の12の動物を充てたのは、後漢前期の地誌学者・王充という人だそうな。

 西域や東方の異民族と交易するとき、方角や日時の間違いをなくすため、身近な動物を割り当てたという。それなら「猫」があっていいし、空想上の動物である「龍」が何故入ったのかといえば、要するに音通する漢字の有るなしに違いない。

 それはさておきーー。

 

 かつて歩くより他になかった時代、文物が伝播する速度は人の歩く速度以上には早くならなかった。その行動半径は1日に歩いて往復できる範囲を超えることがなかった。

 次に駱駝や馬や牛が荷役を運び、舟によって海洋を渡る術が編み出されると、文物が伝わる速度は大きく変わらなかったかもしれないが、行動範囲が一気に広がった。マケドニアのアレクサンダー王がインド北辺まで遠征して一代の大帝国を作り、アラブの民が砂漠を越えて中国と交易した。

 弥生文化(簡素で硬質の焼成土器、鉄と青銅の利器、鏡・剣・珠を神器とする信仰、そして水稲耕作など)が九州北半のどこかで萌芽したきっかけは、おそらく中国大陸における民族の興亡であろう。紀元前5世紀に起こった春秋戦国で太平洋に追い落とされた民族ないし部族が、東海中にあると伝承された神仙国を目指したことは創造に難くない。

 中国の江南地方から海流に乗れば24時間で長崎県五島列島に漂着する。 あるいは北方アジアの騎馬民族が南下した結果、周辺の半狩猟・半農民族が日本海対馬海峡に押し出された。海浪が比較的穏やかな夏の対馬海峡を漕ぎ渡るのは、壱岐対馬を中継基地とすれば難しいことではない。 中国・江南からの人々は最初、有明海沿いの平野部に上陸し、そこで初期の水稲耕作を営んだ。

 一方、朝鮮半島からの人々は、現在の福岡県糸島半島から中国地方日本海沿いに上陸し、あるグループは筑紫平野で、別のグループは出雲平野や若狭平野でそれぞれ力を蓄えた。 弥生文化の源流がこの列島に入ったのは、悠久の歴史からみれば本の一瞬の出来事である。それが変化・発展しつつ、青森県に到達するまで、400~500年の時間を要した。ただし、海流に乗って太平洋側を伝播し、日本海側を走りもした。また水系をたどって長野県安曇野に到達したことが、各地に残る諏訪社の痕跡から明らかである。

 およそ2000㎞を400年とすれば、その速度は年5㎞、時速に換算すると平均57㎝でしかない。ヌラヌラと動く蝸牛でさえ、さすがに1時間に1mほどは動くであろう。

 時速57cmを遅いと見るか、早いと見るか。

 硬質の焼成土器や金属器を生み出し水田で稲を耕作する技術は、おそらく大家族から独立した若者が新しい土地を求めて移動し、新天地で家族を形成する結果として伝播した。現今の医学がなかった当時、人が50歳まで生きることは難しかった。400年はおよそ20世代を超える。

 時速でなく世代の移動速度で考えると、1世代で20㎞というのはほぼ妥当なところ、移動先の先住者と様ざま折衝があったとすれば、早い。 動力が時代変える 産業革命のとき蒸気機関が発明され、石炭と水で推力を得るようになった。

 もっとも初期の蒸気機関はイギリスの炭鉱に湧き出す地下水を汲み上げるポンプに使われたが、シリンダーが密閉式でなかったために燃費効率がよくなかった。当時、ポンプを動かすために石炭を掘り出すようなものだ、という冗談が流行ったと記録にある。

 19世紀、東京の汐留と横浜の・関内を結ぶ陸蒸気は時速20㎞で人と文物を運んだ。日本橋の商家に生まれた森村市太郎(開作)が成り上がるきっかけは、横浜の関内で仕入れた西洋の小間物を江戸の大名女中衆に行商したことだったが、もし幕末に陸蒸気が走っていれば状況は違っていた。

 幕末の維新回天を動かした志士の何人かは、上海に渡り、そこで英国船の下僕となって大英帝国で学んだ。咸臨丸は太平洋を横断するのに43日を要した。その時速は約9㎞である。人が陸路を行く2倍余に過ぎないが、それまでならとうていたどり着くことができない土地をその目で見、異人の話をその耳で聞く驚きが明治という時代を拓いた。

 次いで石油を燃焼させるエンジンが発明され、カール・ベンツの三輪自動車は時速30㎞で走り、ライト兄弟複葉機は時速60㎞で地上15mを12秒間にわたって飛行した。20世紀に入って主要な各国が軍備の増強に血道をあげた結果、日本の零戦は時速500㎞で真珠湾を襲い、メッサーショミットは音速(時速1225㎞)の壁を突破した。

 21世紀のこんにち、我われは時速250㎞の新幹線、音速のジェット旅客機に乗り、高速道路では時速100㎞超で走る。インターネットを使えば世界の出来事がたちどころに分かり、電子メールで海外の人と同時間で情報をやり取りする。わずか2000年余で、文物の動きは時速57㎝から時速1225㎞に高速化した。 ただし、空間の密度はどうかを問わなければならない。

 新幹線と高速道路を使えば、東京から金沢、盛岡、岡山までは日帰りでき、飛行機を使えば札幌や那覇でさえ1泊を要さない。プロセスがなく、結果のみがある。情報化とは、そのような空疎さを含むのではないか。